変わることについて/メモφ(.. )2007年11月06日

変わりたい、と思うことは多い。しかし、人間なるもの、そう簡単に変われるものではない。
もちろん、この人は変わったな、としか思えないこともあるけれども、それもひょっとして、その人が変わったと呼ぶより、自分とその人の、何らかの関係が変わったと言うほうが、正確である場合も多いのかもしれない。

僕は「変わる」というより「成る」と言うほうがしっくりくる。というより、しっくりくるように考えようとしている。「変わる」より「成る」、「変化」より「生成」と言いたくなるのだ。

「成る」も「生成」も言いにくい。けれど、いい日本語を見つけられないでいる。だから、ドイツ語のWerdenの訳語としてよく使われる「生成」を意識して用いることが多い。

変わることの一つの契機は否定である。自分が変わるということは、自分の何かを否定することを含意している。先ず、そこに変化という言葉を拒否したい気持ちが起こる。変化という言葉を日常で使う場合、そのような意味が含まれていることが、僕をそう考えさせている。

自己否定したい何か、その「部分」は本当に否定していいものなのかどうか、そこで少し立ち止まってみてもいいと思う。
否定したい部分を否定することで、他の部分まで何らかの変化を惹き起こすだろう。そしてまた、この考え方は心を(ある程度?)部分として捉えることが可能だと仮定していることも分かる。

もう一つ、考えておくべきことがある。人とチンパンジーのDNAの違いについて、最近の研究が明らかにしてきているところによると、誤差はあるが、両者のDNAの差はおよそ5%未満で一致している。主流なのは、98%以上を共有しているという説だ。

この数字を大きいと見るか、小さいと見るかはその統計的見方やDNAの質(機能)によるだろうし、今後どのような研究が進むのかまだまだ分からない。
因みに、二人の人のDNAの差を比べると、この数字の10分の1以下になるらしい。

ちょっと文学的になろう。大きなプールがあり、そこにあらゆる人の遺伝子が容れられている。つまりそれは人類だ。そのプールの中で、ほぼ同じ組み合わせの遺伝子がたくさん存在している。しかし、ほんの少しずつ異なっている。
僕はこういう想像をすると、もうその差異で十分なのではないかと思えてくるのだ。

わざわざ変わらなくても「もう既に」変わっている──ある人とある人とは違っている。この遺伝子の小さな違いは、しかし、大きな違いとも考えられるのだ。更に、「環境」を加えるとどんなに既に変わっているか、想像もつかない。その歴史性の中ではまた、多くを共有しつつ既に変わっているのだ。

ここで「変わる」という言葉の用法のおかしさが指摘されるかもしれない。「変わっている」と述べているが、それは「違っている」という意味で使っているのではないか、と。
そのとおりである。「変わる」という言葉の用法が、実は、多様なのである。

自然科学を含めて色々な思想がある。(話を端折ります。(^^;)

「個」は一般性、普遍性に対して私(自我)の「個別姓」である。これは、私を出発点として考える人間の基本になる地点である。(その地平は、しかし、計り知れない。)
個の「唯一性」という問題は、出発点といった、言語的に理解可能な何かに還元され得ない「私」である。

そんなに他者と変わらない私、殆ど同じような私、個別的で全然違う私、唯一人(ただひとり)の私。

この私を、曖昧に「変わる」という言葉で否定したり規定することに、違和感があるのである。

最近「変わる/変化」という言葉と共に、何故か「進歩」や「成長」という言葉が連なっているのを、よく見かけるようになった。
「受け入れる/受容」という言葉と共に、「いま、ここ」や「あるがまま」「無為自然(為すこと無く自ずから然り)」という言葉が連なっているのもまた、よく見かけるようになった。「考えない」「(観念を)手放す」という言葉とともに「見つめる」という言葉が付いている場合もある。

そして不思議なのは、これらの言葉が、同一のラインで語られる場合さえ見受けられるようになってきたことである。

「変化」と「生成」という言い方は、単に言葉の問題と言えば、全くそうである。しかし、余りにも言葉の用法が定まっていない。その場合、あちこちから持ってきた言葉をつないでいるだけという可能性がある。
だから、わざわざ使い慣れない「生成」という言葉を使わないと、多種多様な文章に目を取られて、自分自身が混乱してしまうのだ。

よく見かける「変わる」や「手放す」「いま、ここ」といった言葉は、それが発されるまでに長い歴史をその言葉自身が持っているのである。そのことに気づかなければ、その言葉の意味は分かっていないことになる。だから、僕自身はゆっくりゆっくり考えるほうがいい。その言葉に到達しなくても、ゆっくりゆっくり、ゆるゆると考えを進めていくだけだ。

そんな経緯があるから書きにくいけれども、語弊を恐れず言えば、否定しなくても人は変われる。その端的な理由は、肯定しても人は変われるから。
「変わる」ことと「成る」こととの同一性や差異も少しずつ見えてくるだろう。有機的連関に生きる私(たち)は常に既に生成し、それをどう表現するかもまた、生成しつつ行っているのが私(たち)である。
時が来れば成るとも言えるし、何かを為すから成るとも言える。

精神医学と folk pshychology について少し……2007年09月17日

ミクシの中で少し精神関係についてやり取りがありましたので、僕のレスを一部書き換えて(ついでに書き足して(^^;)ここにアップしておきます。。。
話がつながるように直したつもりですが、どうしても目が行き届かず、どこかつながっていない部分があるかもしれません。m(_ _;)m

 ★  ★  ★

医学というのはややこしいもので、先ず患者に何らかの症状/症候があり、それを鑑別診断しなければなりません。そしてその背景にはそれを理解しようとする様々な理論(病理学)があります。

ですから、ここでは医学の中でも精神科の話ですが、日常的用法としての日本語で捉えると、どうしても無理が生じます。それは、僕が前の日記「覚え書きの寄せ集め」で folk pshychology と書いて批判したものを想起させます。

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※ folk pshychology について…(前の日記から引用)

 folk psychology という言葉がある。訳語として現在では何が定着しているのか知らないが、僕(たち)は学生の頃「通俗心理学」という訳を使っていた。心理に関して個々人が持つ、一般的で常識的な理論を指してこう呼ばれる。特に検証を受けたものではなく、自らの体験と一般的で社会常識的な枠組みから成る人間心理に関する体系で、体系ではありながら非整合的であることを特徴として含めてもよい。

 多くの人がこの folk psychology を使って他者の心理を理解しようとしている。それ自体は人間が発達段階で遺伝と環境によって得ていくものだから、良いとか悪いとか言うものではない。しかし、いつまでも folk psychology を信じていると、実際の心理学とは随分異なった信念を得る可能性がある。
現在学問として成立している心理学が必ず正しい(=真である)などとは、全くもって言うつもりはないが、 folk psychology だけを参照していては視野が狭くなると言うことは可能である。そして、この folk psychology は良い作用もするが、時として偏見→差別の原因となり得、もし、人権や差別に対する「感覚」を培おうとする場合があるなら、その妨げとなるだろう。

 補足として……。理由はここではさておき、何故か人は自分の心については自分が(時には最もよく)知っているという、一種の思い込み(信念やドクサ)がある。精神科になると、それは当然のように顕れる。しかし不思議なことに、内科や外科になると、専門的なことは専門家である医者にしか分からない、と考える傾向があるように思う。

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folk pshychology で精神疾患を考えるときの危うさとして、例えば、鬱病(特に中度〜重度)の方、或いは急性期や回復期の方に、或る人が、自分の中で今までに得た心に関する理論を当てはめようとすると、場合によってはその人を追いつめることになるでしょう。(最近知られてきたように、鬱病は死に至りかねない、非常にリスクの高い病気です。ついでに書きますが、神経症も死に至りかねないリスクを持った病気です。)

鬱病でなくとも、昨今知られるようになったPTSDで特に初期の方に対しても、(folk pshychology による理解だけでは)症状が悪化する危険性があると思います。
鬱病やPTSDの認知度は上がりましたが、これらの病状がはっきりしてきたのも、長い臨床研究の積み重ねがあったからでしょう。

もちろん、その人その人にあった方法(民間療法や伝統医療……今は代替医療と呼ばれることが多いですが…)を選択して、最良のやり方を模索していくのがいいのだと思います。(だから、西洋医学だけが万能ではないです!!)

例えば、ずっと同じ動きだけして他は何もしないという症候があり、それをどうすれば緩解、快癒へとつなげられるのか。。。その病理を考えて、最も適した療法を選択する。
関節が痛いという症候がある。それにはどんな病理的原因があるか考えて、最も適した療法を選択する。
血糖値が高いという検査上の症候が見られる、その病理を考え、最も適した療法を選択する。。。
(それは、現状ではそうするしか方法がうまく見つからない。。。残念ながら、かもしれませんが。。。)

逆に、患者側が必死(それこそ死ぬ思いで、でしょう!)になって自分に合った何かを探していると、例えばいい先生に巡り会えたりします。それだけでも、本当に大きな努力の成果だと思います。

もちろん僕は素人ですので、そんな専門知識を持ちあわせてはいないけれど、患者側には患者側の情報源やネットワークがあります。医学の専門家よりも役に立つ情報が、時には得られます。

患者には患者の、障害者には障害者の、医療者には医療者の、社会には社会(と、ここは飛びすぎですが(^^;)のそれぞれの見方がありますが、社会的通念には、余りにも個を無視した論理が溢れているように思うのです。
それは医療だけの問題ではなく、福祉という観点から見ればそこここに見られると思います。

社会という視点に飛ぶことにも理由があります。例えば、、、
透析治療の社会的認知が広がるに従って、以前ほどの、例えば「就職差別」は少なくなったと思います。
ストーマについても認知が広がることで「汚い」といった言葉をかける人も減ったでしょう。
SIDSという原因不明の乳幼児の突然死症候群もありますが、厚労省の研究班等の成果によって「親が悪い」といった偏見も、少しずつでしょうけれど、減ってきているように思います。
鬱病も認識が広まって、「頑張れ」と言わないようにといった認識がされてきたようです。ある精神科医の研究では、日本の年間の自殺者約3万人のうち、4割程は鬱病だろうという推定もなされています。
HIVや肝炎や(特に1型の)糖尿病等も同じではないでしょうか。

より広い話で、文化的にもメインストリームの流行や、社会の多数派の発想法を考える時に、対象とされている人々が余りにも絞られてはいないか、そんなことを考えると、全てがつながってくる……そんなふうに感じています。しかし、その視点は決して無駄ではないと。(そして、頭の中は混乱してしまいますが。。。(笑)orz)

ちょっと羅列しますが……m(_ _;)m
アメリカでのネイティブ・アメリカンへの政策(もちろんアメリカだけでなく「先住民」と呼ばれる人々への各国政府の政策)の問題。日本ではアイヌや琉球さえ無視して未だに単一民族という人がいて、信じられません。
中国等で見られる「搾取工場」と呼ばれる所での労働者。障害と呼ばれるに至る(社会的)経緯。パソコンを使える私たちとパソコンなんて無関係に戦時下や貧困にある状態。近所に住むおじさんは、がんでなかなか働けないし、北九州では餓死事件が起きてますし、フランスではホームレスの住む場所にネズミの殺虫剤がまかれました。
インドやバングラデシュでは今、大洪水で生活ができない人々が沢山います……と、ここでこれを挙げたのは、何故かマスコミがこれについて非常に報道が少ないからですが……、とこうした話は挙げるとキリがありません。そして、全てはリンクした問題だと思っています。

その中で、精神医学と呼ばれる分野での無理解──時には医療関係者や家族が「敵」であったりすることさえある──もつながっており、それが僕にとっては身近な問題なのです。

話が大きすぎるかもしれませんが、こうしたつながりを意識しながら考えないと、医療・ケアも深くは見えてこない、そんなふうに思っています。

もちろん!  folk pshychology が悪いと否定している訳ではありません!
folk pshychology も folk theory も良い方向へ導くことが必ずあるでしょうし、僕自身、folk pshychology を持っているのが当然ですから♪

 ★  ★  ★

以上の話は、僕がタイトルに関して考えている一側面を書きだしたのに過ぎないのであって、例えば「反-精神医学」という流れもあり、それにも共感するところがあります。
他にも、特に嚆矢となったM.フーコーら、「病」は作られるという観点からの研究の流れもあります。

マスコミに頻出する「心の闇」という言葉があり、精神科医が共に登場することがあります。個人は見るが、システム(社会)は見ないという、恐ろしさを感じる風潮です。
理由は分かりませんが、最近マスメディアで「知的障害」が取り上げられることが多くなっていると感じています。くれぐれも様々な観点、立場からの意見が登場することを願っています。

最後に一つ加えておきます。WHOの「健康」の定義を見ると、恐らく普通に言葉を理解する人にとっては、難解な定義です。というより、どう解釈をすればいいのか分からなくなります。
その例を取ってみても、「健康/病気」の定義は不可能なのではないか、と僕は考えています。

僕の学生時代に科学哲学をメインに勉強していた時期、頭から離れず、かつ悩ましい問題がありました。それは、医療という現象です。医療という概念から更に絞って、医学という領域を考えても、既に「臨床」が含まれているのです。
生理学ならまだ自然科学としての扱いができますが、こと医療になると、その複雑さは頭が硬直して体中が痒くなるほどでした。(笑)

実は、医療は経済(学)も重なっていますし、法(学)も福祉(学)もそうです。政治(学)もですし倫理(学)もです。
単純な話ですが、お金がなくては医療を受けられません。アメリカ型の保健制度は、如実にそれを物語っています。そのためにも、(本来の役割を果たして欲しい)メディカル・ソーシャル・ワーカーといった方々が必要なのです。
世界の中で、日本はすぐれて保健制度が整備されているほうの国だと思います。しかし、この制度でさえ、取り残される人々がいるのが現実です。

日本は医者の数(国民一人当たり何人の医者がいるか)が先進国の中でもかなり低い上に、患者数は多いのです。
詳しい統計やWHOの定義等は、ネットで調べればすぐに分かるでしょう。

話が逸れていますが、folk pshychology の持つ危うさだけでも指摘できれば、僕のこの長文(?)は成功かな、と思います。


★追伸(?)

本当に病気で苦しんでいる方が沢山おられます。(身近な精神科疾患の話を、今回は書きましたが。)そして、どうすればその苦しみから少しでも楽になれるんだろうと日々「闘病」していらっしゃると思います。

安易に精神疾患を論じることは、僕にとっても怖いところがあるのですが、それ(僕)以上に、特にネット上では安易な論が蔓延しているような感があります。悲しいことに。。。

上の本文の最後で書いたことは大切に思っていることなのですが、それとともに、安易な論ではなくて、精神疾患に関して(僕も含め)もっともっと理解を深めてゆければいいなという思い、、、それが少しでも伝わってほしい、、、かなり切実にそんな思いを持って書いた文章でした。

「甘え」や「逃げ」という安易な日常語で、日々苦しんでいる人を追い込まないでほしいです。

もっともっとこの社会、世界が寛容に満ちますように。
平安と慈愛を得ることができ、それを広げられますように。
そして何と言っても、僕にその心が少しでも生きていてくれますように。