最近気になったこと?2008年12月31日

1)スーパーの野菜くず
2)信じることについて
3)古典志向について



1)近くのスーパー(コープとも言う(笑))に限らず、
多くのスーパーや八百屋さんで、キャベツや白菜、大根等の葉っぱを捨てるために、
その前に専用の段ボール箱が置かれていることがよくあり、
客自身もそこへちぎって捨てていく。
ふと、もったいないなぁと思った私は、それを拾って持って帰ったのだった。
(でも、まだ二度ほどしかしていません。)
店員さんに一言断ろうと思うものの、言い出しにくく、
そのままカゴに入れていたが、レジの人も何も言わずに会計をして下さった。

特に東京では、ネギの青い部分を捨てる人がいる!
(話では聞いていたが、ホントなのでした。)
また機会があれば拾ってこよう!
……かく、うちは貧乏なのです。。。(^^;


2)これは、ある人にメールを送った文章からの引用である。(一部、加筆訂正してます。)

最近「信じる」という言葉に引っかかりを覚えることが多いです。
信じるという「言葉」が「よい/美しい」ものとして語られているのを
聞いたり見たりすると、違和感を時に感じます。

信じることを余りに平板に捉えすぎているのではないか、などと……。
もちろん、僕にとって「自分を信じること」は大命題なのですが、
それだけに、美辞麗句の仲間入りをしてほしくないという気持ちがあります。
「信」と「不信」、「信」と「疑」は表裏一体、という以前に、
表と表、裏と裏、それぞれ重なっていて、かつ表裏一体というくらいに
密接な関係ではないのかな、と最近は考えることが多いです。
(そんな在り方を視野に入れた上で、信じることを語ってほしいものです。)

ですので、僕が人や何かを信じるというとき、既に不信や疑が含まれていると思うのです。
「信」が美辞麗句になると、たとえば「裏切り」が「悪」の言葉になってしまいます。
普通「悪いこと」とはされていますが……。不信や疑も同様です。

けれども、そういったことを悪いこととして切り捨ててしまうには、
人間も世界も簡単ではない。「信じる」にはもっと広い意味を持たせてやってほしい。


3)以前、私は文学については古典の志向が強く、
音楽には新しさを求めるという話を書いた。
(それで、マイミクさんにご迷惑おかけし、お世話になりました。
同時に、自分を振り返るいい機会をいただきました。
ありがとうございます!)
しかし、最近、そうでもないとも考えるようになった。

確かに、YMOを聴いていたため、例えば最近のエレクトロニカや
ポストロックと言われるような動きは気になる。
前衛的、先鋭的な音楽もたぶん好きなのだろう。
ただ、余りうるさい(単純に音が)のは、聴かなくなってきた。

自分の聴いている音楽を思い浮かべてみると、
思ったより民族音楽やクラシックも多いみたいなのだ。
西洋のクラシックもヨーロッパ地方の民族音楽の一形態と考えれば、
けっこう伝統的で古くからある音楽も好んでいるようである。
あれ? 音楽でもまずまず古典志向が成り立ってるやんかと思ったのであった。


気がつけば大晦日のようです。(^^;
最近、寝込んでました。●■〓
風邪も引いておりました。
今年は風邪にやられすぎてしまいました〜。(ーー;)(笑)←大晦日、最後くらいは笑っておかないと!!

コメント

_ yuki ― 2009年01月06日 01:36

野菜の葉っぱは、もったいないですよね。
はい、ウチはもちろん持ち帰ります。(自分の分だけですが)
そして、炒めたり、煮たりして食べます。

あ、むかしは「鳥のエサにする」とかいって、
捨ててあるやつも貰って帰ってましたよ。
もちろん、自分たちで食べましたよ。(笑)

食べ物を粗末にしたらいけないですからね。(^^)


信じる・・・
僕もよく使いますが、とても難しく重たい言葉だなぁと
常々思っています。

「信じる」という場合には、「すべて」が含まれているし、
その覚悟も必要なんですよね。

この言葉に限らず、すべてのものに、
『表と表、裏と裏、それぞれ重なっていて、かつ表裏一体』
は、ありますよね。

もしかしたら、こういうのって日本語(あるいは漢字体)だけ
なんじゃないですかね?いろんな意味を含む言葉文字って。

_ ぴろ ― 2009年01月10日 10:30

ユキさん(=^ ^=)
……レスが遅くてごめんなさい。。。m(_ _;)m

うーん、さすがですね。
あれはもったいないですよね! でも、意外と箱に入ってなかったりもするので、スーパー行くたび、入ってなかったら「残念!」と思ってしまいますね〜。

信じる……は、難しいですよね。
この「信じる」がたやすく使われる言説が多くみられて、どこからそういう用法が広がっているのかなぁなどども思ってしまいます。

漢字文化圏の指摘は勉強になります。
確かに、例えば英語で「belief」と言ったとしても、日本語よりは確定的な意味を持たせるのかもしれませんが、
しかし、おそらくは、信じるという心の働きには、西洋や東洋に限らず、同じような構造があるように思っています。

100%の「信」は一種の完璧主義的な発想かなぁという感じがします。にも拘らず、それを一種の理想・理念(イデア)として持ち上げていくと、本来の人間的な「信じる」が隠れてしまうのではないかなぁと思います。

そうしたことを、意識できる範囲で「語り」とするのはいいのですが、「できあがった概念・観念」として語り始めると、人間を捉えようとして、信じることについて語っていたとしても、既に高度に抽象化された言説──それも自分によって抽象化の思考過程を経ていない──になっていて、「あまりに人間的な」ではなく、「あまりに理想的な」という内容になっているのではなかろうか、と思うのです。

おそらくは、僕は西洋に少しかぶれて西洋思想好きですから、西洋的な考え方でも、このような議論は成り立つだろうと思っています。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
漢字「記」の画数は?(半角数字のみ記入して下さい)

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://gnothi-seauton.asablo.jp/blog/2008/12/31/4036351/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。