映画に関するささやかな覚書 for SNS on Blog(2)-20年前と現在-2014年01月16日


まだ「前置き」ということになるだろうか。しかし「SNS」とタイトルに付けているからには書かずにはいられない。(ちなみに言ってしまうと、ここでSNSというのは「GR○○」さんのことです。)
十代後半あるいは二十歳前後かもしれないが、私は映画に「ハマり」かけたことがある。つまり今から二十数年前のことだ。そのころ深夜映画が充実していた。映画が「安かった」時期なのだろうと思う。
ハリウッド黄金時代とはいつのことか。恐らく最も多く深夜に放送されていたのは、そう呼ばれる時期の作品だったろう50年代のものも多かったと記憶している。いわば「古き良き」ハリウッド映画が中心だった。

私は十代前半から半ばに、『戦場のメリークリスマス』『ブレードランナー』『風の谷のナウシカ』などから衝撃と影響を受けていた。もっと言えば『コヤニスカッツィ』とか、ナム・ジュン・パイクの「ビデオ・アート」にびっくりしていた。
それが十代後半には、例えば女優さんで言えば、K.ヘプバーンや G.ガルボ、J.フォンテイン、J.ジョーンズ、そして I.バーグマンといった人たちが出る映画を見たくて色々探したものだった。また例えば、今でも好きだが、『踊らん哉』や『トップ・ハット』など、つまりはアステア&ロジャーズを見られるだけ見ようと一所懸命だった。ミュージカルは大の苦手だったにも拘らず。

むかし大阪に「OS劇場」という映画館があり、そこが閉館するにあたり『ベン・ハー』がリバイバル上映されたことがある。閉館に悲しみつつも、(知っている人は知っている、あの)巨きなスクリーンで『ベン・ハー』を見られたことに感激していた。
うーんこれは……その時期ハリウッド映画の夢のような物語とともに夢を見ていた、という感じもあります……。
悪く言えば、ハリウッドは過度に絵空事を描くからリアリティがない。
ずいぶん個人的な話になってしまいましたm(_ _)m

ただこうした話にも意味があって、「東京」の昔の映画館とか劇場のことは本などのメディアによく「乗る(載る)」けれども、どの場所にも何かしら文化の担い手としての「ハコ」があって、それは時に語られたほうがいいと思うのである。
それに、少なくとも80年代、90年代の大阪の深夜映画はとてもいい作品を選択し放送してくれていた。今では衛星や有料放送、あるいはソフトを購入しないと見られない作品も多かった。今どき民放の地上波で、ゴダールやタルコフスキーの特集を組むことなど考えられないだろう。

さて、なぜ私にとって、20年ほど前のことと今とが関係があるのか。大雑把に言えば、レビューや批評、つまりは映画の見方が、20年前と現在とほとんど変わっていないのではないか、という疑問を拭えないからだ。(実際は、変わっているところは沢山あるのですが、大きな流れとして画期的に変化したという印象はどうしても持てません。)

私にも「古き良きハリウッド」を集中して見ようとした時期があったことは述べた。しかしそれも1〜2年の間のことであり、その時もハリウッド映画しか見ていなかった訳ではない。ハリウッド・アメリカ映画だけが映画でないことは改めて書くまでもない。
足許の日本はもとより映画は世界中にある。映画は世界中の人々のものであり、理念として、見るにおいても撮るにおいても世界中の人々のものだ。恐らく私が決定的に目を覚まさせられたのは、タルコフスキーの『ストーカー』によってだった。

映画全般に惹かれるようになって私はガイダンス──案内を求めた。どんなテーマにせよ当時の私にとって最も手近だったのは「書物」である。だから、本屋さんや図書館で映画関係の雑誌や本をペラペラとめくるようになった。確かに色々書かれている。名画タイトルの羅列、監督や役者さんの名前、彼らのつながり云々、作品のストーリーや見所、映画製作の背景等々。
そしてもちろん当時、少なからぬ論評に感銘を受けた。名前はいちいち挙げないが、今でも基本的に尊敬している批評家は沢山いる。しかし映画に関する文章を読めば読むほど、がっかりさせられるものが余りに多くて疲れてしまった。特に大学生になってから、それまで以上に勉強と食べるためにやることが山ほどあって、しかも増えていく一方であり、すっかり疲れてしまった。

私は映画の「データベース」を知りたい、作りたい訳ではなかったのに、まるでデータベースにしかならないような文章が多かったのだ。だから、がっかりした。データベースなら専門家が既に作ってくれているし、これからも作ってくれるだろう(それはそれでとても感謝しておりますm(_ _)m)。
データベースの繰り返し──それも「アップデート」さえなされてないものがそれほどに必要なのか。マイナーなアップデートをのみ繰り返して量産されている、映画に関する言説。そんな失望感を映画に関する本を開きながら感じたのである。20世紀も終わりに近づいている90年代に、映画の中心がハリウッドにあるかのような記述の多さにがっかりした。良くも悪くも淀川長治氏の影響も大きかったと思う。(むろん私は淀川氏を尊敬している。)

そして、現在のSNSでもまたそれと同じような失望を感じたのだ。20年以上経ってまたもや当時のような失望感とともに、徒労感をも覚えたことに苛々せずにはいられなかった。
スタッフとあらすじと作品の背景、そして少しの感想──というデータベースであり、まさに「ガイダンス=案内」と言えばそうであり、とても大切なことと分かってはいるものの、20年前も今も作られ続け、同じような言説が繰り返されているという状況に驚いたのである。
もう一つ付け加えるならば、それらを担っているのが、40代から50代という私と近い世代だということにも驚いた。同時に、それより若い世代でもハリウッド映画に偏って語られている場合が少なくない。いったい、どうしてこういう状況になっているのかと疑問を感じずにいられなかった。

当然ながら、ネットという圧倒的な情報量を持つ世界を覗けば、幾らでも、そうした潮流(ハリウッドや商業性の強い映画を持ち上げる流れ)以外のサイト、ページを見つけることはできる。しかし映画に関する発言・レビュー全般を眺めるならば、メイン・ストリームとでもいうべき、日本に根強く流れる偏向が未だにあるようだと、どうしても感じてしまうのである。これが大手メディアやマスコミとなれば、そうとうひどい。
だから、ひっそりとではあるが、自分でメモのようにでも何か書いていこうと思った次第である。一方では以上の動機から、映画ファンやシネフィルを自称する、特に同世代以上の人々へ向けて。しかしもう一方、よりウエイトを置くべきは、私は映画の何に惹かれているのか、自分へ問うことだ。私にとって映画とは何か。何故ある映画に惹かれ、ある映画には惹かれないのか。恐らく解答はないが、問いはある。これからひっそり(続けられそうなら)続けようと思うのは、そういった類いの文章である。

(続く)

映画に関するささやかな覚書 forSNSonBlog(1)2013年12月06日

ずいぶん前、あるSNS用に映画に関する日記を書き始めた。今は途中で止まっている。これを再開したいと思っていた。
最近またブログを使い始めたので、改めてこちらで少しずつアップしようと思い付いた次第である。
それゆえ当面の内容は、かつて書いた文章に手を入れていく形を取る。また余り疲れないように、加筆・修正は少なくするよう心掛けるため、変な文章がまだまだ残ってしまうかもしれない。
予めお知りおきいただければ幸いである。

  *  *  *

私はいわゆる映画通でもシネフィルでもないけれど、映画を見るのは好きである。たまたまながら、ちょうどあるSNSに入ったころ映画をよく見ていて、そのため「映画日記」というものをあちこちで読ませていただいた。
次に何を見に行こうかなぁ、レンタルしようかなぁ? と、参考にするつもりで気軽に読んでいただけである。しかし、色々と拝読しているうちに違和感を覚えることが多くなってきた。
非常に勉強になる、参考になるものから、全く興味を惹かないもの、更には憤りを抱くものまであって、自分でも一度は映画に関して何か書きたいと思うようになった。

ところで……、
私は文章を書き始めると冗長になるタイプです。こうしてウダウダと書き続けていては先に進みませんね(ーー;) でも、このようにしか書けないので仕方ありません(^^;
また、よく「カタい文章」と言われます。これも仕方ありませんデス(^^;
閑話休題。
はじめに、好きな監督さんを(キリがないので)3人挙げておこう。私の好みが知れて話が分かりやすいだろう。
「今」挙げるなら「現役の」監督さんでは、J-L. ゴダール、D. リンチ、M. ハネケである。(←亡くなった方やハネケさんより若い方は除きました。)

(続く)