岩佐徹氏のブログについて/ほか(※追記あり)2014年02月11日

ソチ・オリンピックのフィギュアスケート団体戦が終わり、まずは、選手の皆さんに感謝申し上げます。


さて、「ブログ村」で最近うわさになっているようなので、岩佐徹氏のブログを見てみた。どうやら人を揶揄するのが好きな方のようだ。記事の中に「ノイジー・マイノリティ」という言葉が出てきた。『岩佐徹のOFF-MIKE』というブログである。(http://toruiwa.exblog.jp/20216895/

私も岩佐氏から見れば一種の「ノイジー・マイノリティ」の中に入るのだろうか。サイレント・マジョリティをもじった造語だろうが、揶揄や皮肉に使うには余りいいネーミングではないなあと思った。
「声を上げる少数派」という意味にでもなろうか、とてもいい印象の言葉ではないか。一般的に、様々な少数派が声を上げることは歓迎すべきことだ。

私は「ノイジー・マイノリティ」より「ノイジー・マジョリティ」のほうが鬱陶しいし、「サイレント・マジョリティ」は、山本七平氏が指摘していたように、いわゆる「空気」を作る「困った」集団を表すこともできる。(本来は、そういう意味で使われた語ではないが。)
これらの4つの分類で言えば、岩佐氏のような、大手マスメディア勤務の経験があるような肩書きを持つ人は、ノイジー・マジョリティとでも言えよう。
ただし無論のこと、これらの分類は流動的である。どのような主題に力点を置くかによって、私も含めて全ての人がどの立場にもなり得る。

アナウンサーという職業は大変なのだろうと思う。しかし、わざわざ私が言うまでもないが、公共性の高い仕事であることも事実であり、その責任の重さは自覚的であって欲しい。もともと私はアナウンサーに対してあまり良い印象を持っていない。が、ここではそれはまた別の話であった。

岩佐氏はフィギュアスケート観戦をお好きなようだ。けれども、その観戦スタイルは全体を感覚的に捉えて美しく見えるかどうかを判断するということらしい。記事を幾つか読んでいると、何となくフィギュアは見ている、という程度と考えてよさそうだ。ひょっとして6種類のジャンプの判別ができないのではないかとも思ったが、まさかそれはなかろう。あれだけのことを書くのだから、スリー・ターンやモホークくらいも知っているのだろう。(もし分からない、知らないとしたら……、ここで私が氏について何か書くこと自体がバカバカしく思えてくる。)

いずれにせよ、まったく主観的な美的判断のみで見ている人が、細かいところまで口を出すこと(特定の人を名指して非難を行うような行為)には、かなり違和感を覚える。(このあたり、主観性とか美的判断等に関しては、映画の話を書いているときにまた触れるかもしれない。) いまフィギュアをめぐって行われている議論はそんな単純な話ではない。

たしかに、いろいろブログを見ていると相当に過激なものもある。けれども、大きく見れば、岩佐氏自身が書かれているとおり、マイナーな次元で留まっているのである。だから、ノイジー・マイノリティという言葉が使える。
フィギュアスケートが大好きな人たちの中に混じって、人を茶化すような行為は止めていただきたいものである。

私自身、このブログでISU(国際スケート連盟)に関して、シリーズのような文章を書いてきた。私がそこで述べていた内容は、簡単に言えば、フィギュアスケートの政治についてである。
「陰謀論者」とか「ルール恭順派」という言葉は、それらを書いているときに知ったのだが、私も陰謀論者に入れられるかもしれない。けれども基本的な部分は、私は陰謀について書こうとしたのではなく、政治について書こうとしていただけである。

現在、周知のとおり日韓関係はよくない。「従軍慰安婦」問題や安倍首相の靖国参拝などがよく話題になる。それについてアメリカはどういう立場を取るかも注目されている。
アメリカの基本姿勢は、東アジア情勢の緊張を高めたくないということだと私は考えている。だから、Yasukuniに対して「失望」という表現に落ち着いたのだと思う。日本も韓国も同盟国の扱いであり、ロシア、中国に対しては牽制を続けている。最も高い緊張は、北朝鮮にある。だが、経済的な面では、アメリカは中国と関係を悪くしたくない。全体として今は、東アジアの安定をオバマ政権は望んでいると見てよいだろう。
現在それ以上にアメリカが懸案事項としているのは、むしろイラク、アフガンの戦争から続いている問題であり中東情勢である。そして、何度かデフォルトを迎えるような内政的な経済問題であろう。

さて、逸脱した話を書いたが、以上のような話を「陰謀論」と呼ぶ人はいないと思う。前に私がISUについて書いてきたことも同じである。私が自分なりに調べて、フィギュアスケートの世界における政治的な駆け引きを推測しただけである。推測と言うより、まだまだ憶測のレベルだと言われるかもしれないけれども。
そのときに重要な参考文献として、猫宮黒埜さんの著書を参照させていただいたのは、前にも書いたとおりである。

猫宮さんと言えば、つい先日『フィギュアスケート 銀盤の疑惑』という新著が手許に届いた。私としてはお薦めの本である。前著より格段に読みやすくなっている。内容については、前にも書いたとおり、何を信用しどのように評価するかは読者次第である。これは、物理学であろうと哲学であろうと歴史であろうと全く変わりはない。

先にも触れたが、フィギュアスケートのファン・サイトには過激としか言い様のないものも存在する。しかしそれは一部であり、いわゆる「ヘイトスピーチ」に近いような内容は基本的にスルーしてよいと思う。
たしかに、ナショナリズム——というふうに括ると失礼かもしれないが、分かりやすくするためにこの語を使用させていただくと——ナショナリスティックな過激な表現は増えているように感じる。「ネット右翼/ネトウヨ」という言葉も思い浮かぶ。

けれども、仮にも岩佐氏が大手メディアに関わっていたのなら、考えるべきは、言うべきは、なぜ今このように、昔ふうに言えば右翼的な風潮が強くなるのかについて、自身の所属していたマスコミのあり方も、いや、そこをこそ注視して、自身の報道姿勢も顧みながら、これからどうすれば社会にとって、世界にとってよいのかを考察することではないのか。
岩佐氏は、それどころか呑気に表層的な言葉遊び、ネット遊びをしているだけに見える。いい歳をして「ハハハ」を連発して何をしているのだろうか。

ナショナリズムのことを言えば、韓国の特に政府やマスコミの酷さは度を越している。市民レベルでも、ネットで見られる反日民族ナショナリズムは相当なものと見える。あえて自分で調べている訳ではないけれども。
私はハングルは分からないが、翻訳を見る限り日本のネット右翼の比ではないと考えてよさそうな調子である。浅田真央選手に投げかけられる言葉の汚さは、機械の日本語訳だが、読むにたえない、目も当てられない酷さである。
(辛淑玉さんによれば、韓国語の「悪口」の語彙は日本語の数十倍というから、余計にそう感じるのかもしれない。参照は文春新書の『愛と憎しみの韓国語』)

もちろん、だからと言って日本のネットでの酷い言葉が正当化される訳ではない。それでも、サイバー攻撃に代表されるようなネットを使った暴力的な行為、実力行使は、日本より韓国のほうが圧倒しているのが現実であろう。
日本よりやや韓国に危うさを感じるのは、国際政治学的な面から考えて、政治家・権力者層、およびマスメディアの反日ナショナリズムが非常に強固な点にある。それが、政治・外交的な戦略以上の意味を持つ可能性に対して、危惧を覚えてもおかしくない。これまで以上に私たちは、日韓の権力層、富裕層の動向を注意深く見続ける必要がある。

岩佐氏はずいぶんお元気そうだし、映画に関心もお強いようだから、スポーツと大衆とか、スポーツとマスメディアとか、オリンピックと映画が共有する問題としてその政治性politics、商業主義commercialism、複製芸術の理論(W.ベンヤミンなど)であるとか、あるいは、韓国の反日民族ナショナリズムと日本のナショナリズムとか、そういうテーマにもっと真面目に取り組んだらどうなのだろうか。安倍首相の掲げる「戦後レジームからの脱却」論についてとか。

さて、話をスポーツに引き戻さないといけない。
ソチ・オリンピックが始まり、マスコミでもモーグルの上村愛子選手がかなり話題に上っている。もうあと一段、本当に4年ごとに一段々々昇ってきて、もう一段上に行って欲しかったけれども、あの彼女の清々しさで、見ているこちらが救われた気分だ。(上村さん、ありがとう!)

それとともに、マスコミでもモーグルの採点に対して疑問や不公平感が報じられた。そして上村選手への共感や感謝の声もマスコミは伝えたではないか。実際、今回はじめてモーグルの採点方法の一端を知った人も多いのではないだろうか。私もそうである。カーヴィング・ターンとスライド・ターンという「流行」があって、今は上村選手には不利な流れにあるという。
フィギュアスケートでも、バンクーバー・オリンピック後に少しだけ採点方法について疑問が伝えられた。しかし、あっという間にその声は大手メディアから消えてしまった。そして、事実として、キム・ヨナ選手の話題が嫌になるほど多く流された。

上村選手、そしてほとんどの競技で日本選手への応援、共感、同情といった声がマスコミ上にどっと流れ、そしてすっと消えていく。それでも採点に関する情報は流された。
この後モーグルに対する関心がさらに高まり、自ら楽しむ人、応援を頑張る人が増えるかもしれない。その中で採点について持論を展開する人が出てきても、少なくとも無関心よりはいい。横から発言力の強い人が出てきて叩く必要はない。
国際試合の実況中には、サッカーや野球では解説者もアナウンサーも日本を応援するような言葉が次々と溢れ出てくるではないか。それに比べると、良い悪いではなく実際の話として、フィギュアスケートでは実に抑えられた中継がなされる。

それにしても、ソチ・オリンピックを見ているとマスコミの報道はいつもながらマナーが悪いなあと感じる。アナウンサーによるレポートやインタビューは折々失礼さを感じる。

先日のフィギュアスケート団体戦で、会場の「ロシア・コール」に驚いた人は多いだろうと思う。私自身、フィギュアスケートであのような、まるでサッカーのような雰囲気の大会は初めて見た。ナショナリズムまる出しの、「代理戦争」という言葉がぴったり当てはまるような、フィギュアスケートらしくないものだった。
ひょっとすると、先に触れた、フィギュアスケートの中継が抑えた感じであることは、これと関係しているのかもしれない。すなわち、もともと伝統的に、フィギュアスケートはスノッブなたたずまいを持っている。だから、球技やスピード競技のような応援はフィギュアスケートにそぐわない。むしろ、ゴルフのようにジェントルな雰囲気が相応しい。

さて、もちろんだが、この短時間で私は岩佐氏のブログ・エントリーを全て読んだ訳ではない。それでもざっと見ていると、再び昔ふうの言い方だが、私の印象では保守右派と感じる。
岩佐氏は、これまでのマスコミのスポーツ報道に責任を感じていないのだろうか。氏のブログはスポーツ・芸能のゴシップ記事のような感じではないか。特別に過去のテレビ報道のあり方に批判的な意はないように思われる。現状のスポーツ報道について基本的に黙認・追認の姿勢であると受け取ってよさそうだ。ただ単にご自分で昔を懐かしんでいらっしゃるだけかもしれないが……。

ところで、日本人はスポーツの政治性に鈍感すぎると私は感じている。これはマスコミの報道にも責任があるだろう。
私はISUについて考えていたとき、スポーツは政治的であるということは前提としていた。「政治的」とは曖昧な表現だが、ここでは立ち入らないでおく。
子どもでもちょっと考えれば分かることではないか。スポーツは政治と関係しているし、スポーツは政治的になるものだ。特に国際競技では、むしろスポーツと政治は不可分だと言うほうが世界的には常識である。そういうことを表向きにはマスコミも、そして学校も言ったり教えたりしない。キレイごとを並べようとする。

私がここで政治的と言っているのが、不正や八百長だけを指しているのではないことは、改めて書くまでもないだろう。そういった事柄、個々の事実云々の前に、先ずスポーツの政治性に注目しなければ見えてこない事象があるはずだ。嫌々ながら仕方なくであっても(私はそうだ) スポーツが政治的であるということを考えてみることにも意義はある。そういう視点で考えてはいけないという決まりはない。
荒っぽく言うと、人間が社会的動物だとすれば、社会的であることは政治的であることを導くのだから、スポーツであれ芸術であれ、政治的であるのは当たり前だ。

体育という教科やスポーツマンシップという「概念装置」を使って、そういう思考を止めようとする。そしてメディア・リテラシーは育てない。明らかにこれらは、日本の社会システムとして機能している。
マスメディアでのスポーツ報道もそうしたシステム、それも非常に大きなものの一つだが、まさに当事者として関わっていた岩佐氏は、積極的にそのシステムを再生産してきただろうし、今でも良識的な装いをまといながら、その延長線上の活動をしているということだと思う。

氏は非常に「ノイジー」な、うるさい外野である。早く退場していただきたい。そして、高みの見物でもしていればいいではないか。


☆オリンピック中なのに、変な話を書いてしまいました。(汗)
 それにしても、全然本文とは関係ないのですが、「ノイジー」という言葉から連想して……。
 岩佐氏は「雑音noise/音sound/音楽music」の関係とか考えたことがあるのかなあ。

☆どうも荒川さんの話は信用ができないのですよねぇ……。
 技術的なこと以外では、「メンタル」「緊張」「プレッシャー」「コントロール」を組み合わせた話しか聞いたことがない。エセ心理学者とか占い師みたいです。
 彼女が他人の心理分析ばかりするのだったら、私も真似て書いてみる。荒川さんは恐らく、心理学でいう認知的な不斉合を低減しようとしているのだろう。とともに、帰属の誤りに当たるような推論を行っているのだと考えられる。もう一つ指摘できそうなことは、幾人かの後輩に対して、いわゆる「ル・サンチマン」を持っているのではないか、ということである。伊藤みどりさんや八木沼純子さんとは明らかに言動が違って見える。あの……このあたりはジョークとして読んで下さい!
 ただ先日も、自分は演技開始後(音楽が掛けられてから)1秒後にその選手の結果が分かる、と荒川さんはおっしゃっていました。そんなことあり得るんでしょうか……。(オリンピック開催前のニュース番組でした) 他にも、年上の現役オリンピアンに向かってオリンピックでの、特に精神面での過ごし方について、得々と話していたり。
 とにかく、選手の「心の中」を勝手に推測して、それ以外に「正解」はないに決まっているといった風情で語るのだけは、早くやめてほしいものです。超能力者でもあるまいし、人の心を読むとか、他人の内面を正確に言い当てることなど、できる訳がないでしょう!


★まっちー、すごくカッコよかったですね!
 キャシー&クリス、お見事でした! もう〜天晴でございます!
 真央ちゃんならできる!


※追記
 最初にお断りしておきます。間違っていたところ、勘違いしていたところなどを含め、加筆訂正した部分があります。

 ここでいったん、参考文献をごく簡単に挙げておきます。いえ、文献というよりそのご著者ですね(^^)
 日韓の現代文化について、おもに、韓国出身の研究者としては呉善花さん、クォン・ヨンソクさん、朴チョン(にんべんに宗)玄さん、日本の研究者では何といっても小倉紀蔵さん、
また、政治学・社会学関係では姜尚中さん、小熊英二さん、大澤真幸さん、上野千鶴子さん、塩川伸明さんなどの著書を頭に思い浮かべながら書いています。
 挙げ始めると切りがありません。もちろん、いわゆる古典はここには含まれていません。

 男子シングル・SPが行われました。羽生くんすごいですね! オーサー・コーチの同門とはいえ、J.フェルナンデスくんが滑る前、キス&クライからエールを送っていたのが印象的でした。これがスポーツマンシップだと思います。

 それに比べて、どうしてキム・ヨナ選手はあんなに態度が悪いんでしょう。他選手の曲かけの練習を思いっきり妨害したり、にも拘らず他選手に妨害されたと一度ならず発言して、とある選手に至っては謝罪に追い込むという事態にまでなったし、ちょっとしたことで訴訟を2つも3つも起こしたり……。私は詳しい訳ではありませんが、フィギュアスケートの情報をただ追いかけているだけでも、こうした話が耳に入ってきます。私が悪い印象を持ってしまうのも仕方がないと、この辺は理解していただきたいです。

映画に関するささやかな覚書 for SNS on Blog(2)-20年前と現在-2014年01月16日


まだ「前置き」ということになるだろうか。しかし「SNS」とタイトルに付けているからには書かずにはいられない。(ちなみに言ってしまうと、ここでSNSというのは「GR○○」さんのことです。)
十代後半あるいは二十歳前後かもしれないが、私は映画に「ハマり」かけたことがある。つまり今から二十数年前のことだ。そのころ深夜映画が充実していた。映画が「安かった」時期なのだろうと思う。
ハリウッド黄金時代とはいつのことか。恐らく最も多く深夜に放送されていたのは、そう呼ばれる時期の作品だったろう50年代のものも多かったと記憶している。いわば「古き良き」ハリウッド映画が中心だった。

私は十代前半から半ばに、『戦場のメリークリスマス』『ブレードランナー』『風の谷のナウシカ』などから衝撃と影響を受けていた。もっと言えば『コヤニスカッツィ』とか、ナム・ジュン・パイクの「ビデオ・アート」にびっくりしていた。
それが十代後半には、例えば女優さんで言えば、K.ヘプバーンや G.ガルボ、J.フォンテイン、J.ジョーンズ、そして I.バーグマンといった人たちが出る映画を見たくて色々探したものだった。また例えば、今でも好きだが、『踊らん哉』や『トップ・ハット』など、つまりはアステア&ロジャーズを見られるだけ見ようと一所懸命だった。ミュージカルは大の苦手だったにも拘らず。

むかし大阪に「OS劇場」という映画館があり、そこが閉館するにあたり『ベン・ハー』がリバイバル上映されたことがある。閉館に悲しみつつも、(知っている人は知っている、あの)巨きなスクリーンで『ベン・ハー』を見られたことに感激していた。
うーんこれは……その時期ハリウッド映画の夢のような物語とともに夢を見ていた、という感じもあります……。
悪く言えば、ハリウッドは過度に絵空事を描くからリアリティがない。
ずいぶん個人的な話になってしまいましたm(_ _)m

ただこうした話にも意味があって、「東京」の昔の映画館とか劇場のことは本などのメディアによく「乗る(載る)」けれども、どの場所にも何かしら文化の担い手としての「ハコ」があって、それは時に語られたほうがいいと思うのである。
それに、少なくとも80年代、90年代の大阪の深夜映画はとてもいい作品を選択し放送してくれていた。今では衛星や有料放送、あるいはソフトを購入しないと見られない作品も多かった。今どき民放の地上波で、ゴダールやタルコフスキーの特集を組むことなど考えられないだろう。

さて、なぜ私にとって、20年ほど前のことと今とが関係があるのか。大雑把に言えば、レビューや批評、つまりは映画の見方が、20年前と現在とほとんど変わっていないのではないか、という疑問を拭えないからだ。(実際は、変わっているところは沢山あるのですが、大きな流れとして画期的に変化したという印象はどうしても持てません。)

私にも「古き良きハリウッド」を集中して見ようとした時期があったことは述べた。しかしそれも1〜2年の間のことであり、その時もハリウッド映画しか見ていなかった訳ではない。ハリウッド・アメリカ映画だけが映画でないことは改めて書くまでもない。
足許の日本はもとより映画は世界中にある。映画は世界中の人々のものであり、理念として、見るにおいても撮るにおいても世界中の人々のものだ。恐らく私が決定的に目を覚まさせられたのは、タルコフスキーの『ストーカー』によってだった。

映画全般に惹かれるようになって私はガイダンス──案内を求めた。どんなテーマにせよ当時の私にとって最も手近だったのは「書物」である。だから、本屋さんや図書館で映画関係の雑誌や本をペラペラとめくるようになった。確かに色々書かれている。名画タイトルの羅列、監督や役者さんの名前、彼らのつながり云々、作品のストーリーや見所、映画製作の背景等々。
そしてもちろん当時、少なからぬ論評に感銘を受けた。名前はいちいち挙げないが、今でも基本的に尊敬している批評家は沢山いる。しかし映画に関する文章を読めば読むほど、がっかりさせられるものが余りに多くて疲れてしまった。特に大学生になってから、それまで以上に勉強と食べるためにやることが山ほどあって、しかも増えていく一方であり、すっかり疲れてしまった。

私は映画の「データベース」を知りたい、作りたい訳ではなかったのに、まるでデータベースにしかならないような文章が多かったのだ。だから、がっかりした。データベースなら専門家が既に作ってくれているし、これからも作ってくれるだろう(それはそれでとても感謝しておりますm(_ _)m)。
データベースの繰り返し──それも「アップデート」さえなされてないものがそれほどに必要なのか。マイナーなアップデートをのみ繰り返して量産されている、映画に関する言説。そんな失望感を映画に関する本を開きながら感じたのである。20世紀も終わりに近づいている90年代に、映画の中心がハリウッドにあるかのような記述の多さにがっかりした。良くも悪くも淀川長治氏の影響も大きかったと思う。(むろん私は淀川氏を尊敬している。)

そして、現在のSNSでもまたそれと同じような失望を感じたのだ。20年以上経ってまたもや当時のような失望感とともに、徒労感をも覚えたことに苛々せずにはいられなかった。
スタッフとあらすじと作品の背景、そして少しの感想──というデータベースであり、まさに「ガイダンス=案内」と言えばそうであり、とても大切なことと分かってはいるものの、20年前も今も作られ続け、同じような言説が繰り返されているという状況に驚いたのである。
もう一つ付け加えるならば、それらを担っているのが、40代から50代という私と近い世代だということにも驚いた。同時に、それより若い世代でもハリウッド映画に偏って語られている場合が少なくない。いったい、どうしてこういう状況になっているのかと疑問を感じずにいられなかった。

当然ながら、ネットという圧倒的な情報量を持つ世界を覗けば、幾らでも、そうした潮流(ハリウッドや商業性の強い映画を持ち上げる流れ)以外のサイト、ページを見つけることはできる。しかし映画に関する発言・レビュー全般を眺めるならば、メイン・ストリームとでもいうべき、日本に根強く流れる偏向が未だにあるようだと、どうしても感じてしまうのである。これが大手メディアやマスコミとなれば、そうとうひどい。
だから、ひっそりとではあるが、自分でメモのようにでも何か書いていこうと思った次第である。一方では以上の動機から、映画ファンやシネフィルを自称する、特に同世代以上の人々へ向けて。しかしもう一方、よりウエイトを置くべきは、私は映画の何に惹かれているのか、自分へ問うことだ。私にとって映画とは何か。何故ある映画に惹かれ、ある映画には惹かれないのか。恐らく解答はないが、問いはある。これからひっそり(続けられそうなら)続けようと思うのは、そういった類いの文章である。

(続く)

映画に関するささやかな覚書 forSNSonBlog(1)2013年12月06日

ずいぶん前、あるSNS用に映画に関する日記を書き始めた。今は途中で止まっている。これを再開したいと思っていた。
最近またブログを使い始めたので、改めてこちらで少しずつアップしようと思い付いた次第である。
それゆえ当面の内容は、かつて書いた文章に手を入れていく形を取る。また余り疲れないように、加筆・修正は少なくするよう心掛けるため、変な文章がまだまだ残ってしまうかもしれない。
予めお知りおきいただければ幸いである。

  *  *  *

私はいわゆる映画通でもシネフィルでもないけれど、映画を見るのは好きである。たまたまながら、ちょうどあるSNSに入ったころ映画をよく見ていて、そのため「映画日記」というものをあちこちで読ませていただいた。
次に何を見に行こうかなぁ、レンタルしようかなぁ? と、参考にするつもりで気軽に読んでいただけである。しかし、色々と拝読しているうちに違和感を覚えることが多くなってきた。
非常に勉強になる、参考になるものから、全く興味を惹かないもの、更には憤りを抱くものまであって、自分でも一度は映画に関して何か書きたいと思うようになった。

ところで……、
私は文章を書き始めると冗長になるタイプです。こうしてウダウダと書き続けていては先に進みませんね(ーー;) でも、このようにしか書けないので仕方ありません(^^;
また、よく「カタい文章」と言われます。これも仕方ありませんデス(^^;
閑話休題。
はじめに、好きな監督さんを(キリがないので)3人挙げておこう。私の好みが知れて話が分かりやすいだろう。
「今」挙げるなら「現役の」監督さんでは、J-L. ゴダール、D. リンチ、M. ハネケである。(←亡くなった方やハネケさんより若い方は除きました。)

(続く)

ISU の余りに深い罪〜付記(10-1) キム・ヨナ症候群について2013年10月26日

 さて、それでは……以下、フィギュアスケートに関してちょっと気になっていることを幾つか付け加えておこうと思う。ネット上のどこかで、“キム・ヨナ症候群”という言葉を目にしたことがある。どうやら、韓国の台頭(色々な意味で)を恐れる日本人の心理が、反キム・ヨナ/アンチYu-naという現象として現れている、という議論のようである。
 確かに、特にネット上で、Yu-na選手を攻撃するとともに、保守・右派的な言論を載せるという行為が目立つようになっている。しかし、それは依然として一部の現象であって、多くのフィギュア・ファンはそんなに単純ではないし、また日本人の心理のある面を一般的に語る方法としては妥当ではない。反・韓国の感情や、いわゆる嫌韓の心理とYu-naというスケーターを直結させるのは短絡であるし、Yu-na選手の名をその種の象徴として用いるのは適当ではない。キム・ヨナ症候群という議論、理解の仕方は、ひと言でいってしまえば誤解に過ぎない。
 私を含めて、Yu-na選手に対して心から賞賛を送れないファンがいるとして、私たち、彼らが考えているのは恐らく、なぜ彼女だけがあんなに高い評価、得点を得るのか理解できないという、その一点に集約できると思う。ああだろうこうだろうといろいろ考えてはみるものの、どうしても納得のいく理由が見当たらない。そんなことだと思う。C.コストナー選手、浅田真央選手の点数には納得ができても、である。

 これが例えば、より人気の高い、日本におけるメジャースポーツの代表とも言える野球やサッカーでこのような、アンチ・Yu-naのような現象が起きたならば、○○症候群という理解も可能かもしれない。しかしフィギュアスケートで、いわばナショナリスティックな心理と結びつけるのは飛躍のし過ぎである。何かにつけてYu-na選手と並べて論じられる浅田真央選手が国民的人気を持っているとして、それを考慮しても無理がある。
 Yu-na症候群なり何なりが国民的な、ナショナリスティックな意味を持ち得るとすれば、それは日本ではなくむしろ韓国においてであろう。日本でフィギュアスケートはブームのような様相を呈してはいるものの、やはり多くのスポーツの一つであり、野球やサッカーに比べればマイナーである。
 かつて日韓共催のワールドカップが行われ、韓国チームはベスト4に入る快挙を見せた(実力かどうかは別として)。もし今、同じようなことがあったとしても、サッカーの○○症候群のようなものは生まれないだろうし、また野球の日韓戦があったとして5年、10年連続で日本が連敗していたとしても、野球の○○症候群は起こらないだろうと思う。日本のメジャー・スポーツでもそんなものではないだろうか。

 ただし、もし反日ナショナリズムと不正行為がセットで示されたとしたら、日本でナショナリズムが強く出る可能性はある。しかし、先日サッカー日韓戦で韓国側サポーターが政治的メッセージの強い、巨大な(!) 横断幕を掲げた事件があり、記憶に新しいところだ。それでも日本では大きなナショナリスティックな反応は起きなかった。
 たしか「歴史を忘却した民族に明日はない」といった内容だったと思うが、これについて言うなら、寧ろ韓国側が自身に問うべき命題であり、自身が自身に突き付けるべき問題でもある。彼らが民主化やグローバル化が達成されたと考えるなら、今や韓国の歴史学者、社会科学者、知識人、そして政治家たちが、その命題を自身に対して問わなければばならない時代が来ている。もちろん、日本側が引き続き自身にこの命題を問い続けなければならないことは言うまでもない。それにしても、不思議なのは、韓国のナショナリストたちは「国民」や「民族」「国家」という概念を整理して理解した上であのような文言を考えたのだろうか。ネイションnation、ポリスpolis、デモクラシーdemocracy、民主主義等の概念を如何に理解するかは、現在、世界的な課題でもあるというのに!
 横断幕の文言だけ見れば実にまっとうで尤もな内容だが、他国批判をするには余りにも幼稚とも受け取れる内容である。韓国のどのような層があのような言葉を考えたり支持したりしているのだろうか。ひょっとすると、反日教育を無批判に鵜呑みにしている人たちなのだろうか。それならば理解できなくもない。韓国は儒教が盛んな国だと聞くが、教科書を疑うこともなく受け入れるとは、「学びて思わざれば……思いて学ばざれば……」の句もむなしいではないか。

 ところで私は昔から、十代の頃から日本のナショナリスティックな動きが心配で仕方がない。これ以上ナショナリズム(やファシズム、全体主義等)を膨らませてはならないと思っている。少なくとも明治以降日本ではあらゆる世代で、その質は違っても、何らかの種類のナショナリズムに、人々が汲み取られる現象が起きている。日本だけの問題ではないけれども、多種多様な感情や主張がなぜ、どのようにナショナリズムに吸い込まれていくのかを考えるのは、世界的に共有されている課題だろう。すなわちイデオロギー批判としてでなく先ずは研究課題として。

 話を戻そう……。
 昨今、日本の新世代右翼(?) がヘイトスピーチを行っているが、日本では同時に、更にそれに反対するデモや団体が生まれている事実もある。未だ日本は韓国よりずっと冷静であり続けていると思う。キム・ヨナ症候群という理解は、とんだ誤解である。

★(10-2) へ続く。

ISU の余りに深い罪(3)2013年09月01日

 ところで、旧方式のほうが主観的と思われがちだが、新システムも恐らく同じくらいに主観的である。あれだけ沢山の数字を導入しておいて、客観性はたいして担保されていない。
 新システムでは、TES(total element score トータル・エレメント・スコア/技術点に近い)と、PCS(program component score プログラム・コンポーネント・スコア/表現点に近い)とを合計した得点で、順位が決定される。この得点は、もちろんのこと、審判が演技全体や個々の技の要素の出来具合を判断して、点数を付けたり、加点・減点して算出される。
 どんなスポーツでもそうだが、ルールブックやガイドラインが存在し、それに則って判定が行われる。しかしフィギュアスケートではかなりの程度、恣意的なジャッジング、判定が可能である。
 先ず、既に構造的に、PCSはジャッジの印象によって左右される。だが、それはそういうものだとも言える。「表現力」に対して万人に共通の論理を適用することは、今のところ不可能だろう。
 次に、TESはPCSより客観的に示されるように思えるはずだが、現実はそうなっていない。TESにおいて、加点と減点はPCSに負けず劣らず、恣意的で主観的な印象によって付けることができる。ただ、これも構造的な問題であって、仕方ないと言える面がある。良心的な運用がなされれば、多くの人が納得できる可能性は高い。
 さて一番の問題点をここで指摘しよう。それは「良心的な運用」という言葉と関係しており、Yu-na選手の採点に多く見られる、というよりYu-na選手にばかり有利になされているとしか考えられない、ルールの適用、判定に関係する。
 すなわちルールの適用、運用のされ方がおかしいのであり、これがISUの現行ルールの最大の問題点である。そして改善の一番の近道は、ジャッジの匿名性を廃して、判定の透明性を確保することである。
 たとえこの変更が形式的だと思えても、目的ははっきりしている。どのジャッジが納得できない判定を行っているのかを、我々が知ることができるようにするためである。

★(4)へ続く。