やっぱりフィギュアの採点は……ややこしい(- -;)2015年11月29日

浅田真央さんが現役復帰されて本当に嬉しいですね。(^ ^)
おめでたいことがたくさんあって、
羽生くん、宮原さんのW優勝おめでとうございます!
無良くん、真央さん、銅メダルおめでとうございます!

ただ、ここは毒を吐くところでもあって、ちょっと不満を書いておきます。(汗)
フィギュアの採点にずっと文句を言ってきましたが、
今でももちろん匿名というのがとても嫌です。
くわえて、前にも書いていたと思うのですが、改めて感じたのは、
ジャッジの恣意性がやっぱり強いなあということです。
無良くんも真央さんも、点数低すぎますしねえ……。

たしか新しい採点法が出てきた頃、田村明子さんが、
この方式が馴染むまで10年はかかるだろうという旨のことを本に書いていらっしゃった。
10年経つけれども、馴染むというより疑問が解決されないままだと思ってしまう。

改めて書き方を変えてみますと、
GOE(出来映え点)とPCS(演技構成点)がジャッジングを分からなくさせている。
TES(技術要素点)とPCSを足して得点になりますが、
TESという名称はおかしいです。
まるで「技術点そのもの」であるかのように表示されますが、
実際は、既にジャッジによる加減点がされている、
つまりGOEの評価が既につけられた点数なのに、
あたかもこれが技術の高低/難易度であるかのように見えてしまいます。

フィギュアでは、

基礎点+GOE+PCS

となっていて、むしろ
基礎点=技術点に
2度のエクスキューションexecution(技の遂行の度合い)がつけられている
ようなルールになっています。
なのに、TESとPCSしか表示されない。
せめて、基礎点とGOEとPCSの3つを示してほしいと思うこの頃です。

例えば、体操などでは
T-スコアが技の難度
E-スコアが出来映え評価
で、この二つを合計したものが得点となります。
しかし、フィギュアでは、
TESの中に少なくとも大きな点数を左右する要素(変数)としてGOEが入り込んでいます。
ややこしい!
もっと言えば、基礎点自体が既に「評価」された後の点数である。
じつにややこしいです。

ちょっと極論っぽくなってしまいますが、
真央さんはもう競技スポーツというより「道」や「芸術」の世界ですから、
(柔道とか剣道とか相撲道というときの「○○道」の道です……)
つまりISUのジャッジングとは別の次元で見ればいいですから、
あまり得点は関係ないのですが、
競技スポーツとしても、
こういうややこしい採点方法や表示の仕方は面白くありませんね。

あと……
NHKでもとうとう荒川(静香)さんが出てきて、
聞いていると非常に不愉快な気分にさせられます。
人を悪く見る癖があるのかどうか知りませんが、
もう少しあたたかく選手たちに対してコメントすればいいのに……。
ただ「やった」とか「すごい」とか感嘆詞でもいいところを、
ああだこうだと上から言うのは、
耳障りを超えて、選手の人間的な何かを評価しているように聞こえるのでしょうか、
不愉快にならざるを得ません……。
思いやりとかそういうのが感じられなくて残念ですね。

それにしても、羽生くんすごいですね!
誰も言わないから分からないのだけれど、
4回転ジャンプを5回クリアに決めたのは、フィギュアで初めてではなかったのでしょうか。(ハテナ)
うーん、金博洋選手(ボーヤンくん)がやったのかなあ?
思い出せないでいる私でした。(^^;

だらだらと文章を書いてしまいました。久しぶりなのに……。m(_ _)m

雑記です。(浅田真央さん)2014年04月15日

たまにはただただ手の動くままに、余り考えずに書いてみたいと思いました。
……というものの、実は、以下はよく拝見している、あるブログのコメント欄に書かせていただいたものの一部です。
平井堅さんの本が紹介されていて、とても共感を覚えたのです。ただ、書名が書かれていなかったため、それを紹介できないのは残念ですが……。

残しておこうかなと思ってせっかく自分のブログにアップする文章なので、ちょっと加筆してあります。

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平井堅さんのお話、よくわかる気がします。
私も平井さんと同年代と言えるのですが、以前は、フィギュアスケーター=Midori Itohでした。そして、伊藤みどりさんと誰々、という感じで見ておりました。

けれども、今ではフィギュアスケートと言えば、Midori ItohとMao Asadaは並んで、私のヒーローになりました。
自分でもびっくりしています。想像もしていませんでした。

小さい頃はもっとヒーローがいたと思いますが、私もひねくれていて、もともと国民的スターで、かつ自分の憧れのスポーツ選手というのは、そんなにいなかったのです。柔道の山下さんとか千代の富士とかでしょうか……。
むしろ、ミュージシャンや文学者のほうにヒーローが多かったのです。

それが、ひょっとしたらこの歳になって(?)フィギュアスケートのヒーロー、スポーツのヒーローの1番がみどりさんより真央さんになるかもしれないと感じていて、信じられないくらいビックリしています。

Ichiroでもなく本田圭介でもなく北島康介でもない。ましてやマー君でもなく……。
今や真央さんは、室伏広治さんや清水宏保さん、谷亮子さんや野村忠宏さんより憧れが強い! びっくりです。
真央さん、すごいです。

まあ、私にとって、ではありますが……。

『ガタカ』という映画があります。とても好きな作品です。真央さんを見ているとその映画を思い出します。
いえそれどころか、当然かもしれませんが、この作品よりもずっとずっと深く感じ入っています。

音楽にフランス印象主義と呼ばれる人たちがいます。(本来は音楽に印象主義はありませんが。)ドビュッシーやラヴェル、サティがその代表ですよね。今までに真央さんは1回使用したことがあったと思います。

ローリー・ニコルさんは、ショパンと真央さんがピッタリだとよくおっしゃいます。
しかし、私はそれ以上に、むしろ真央さんはドビュッシーの世界を最も表現できるフィギュアスケーターではないかと思っています。

はっきりした流れ(はっきりし「過ぎて」いるメロディ)や起承転結のある音楽ではなく、さらに20世紀の音楽(シリアス・ミュージック)と明確に接続していて、純粋性と抽象性を持ちかつ象徴的でもある、そんな世界を表現できるスケーターはまずいないと思います。

シュールレアリスムとファンタジーとリアリズムの融合。美と技に支えられ瞬間の美へ届く、有限性と無限性が生まれては消え、消えては生まれていくような新しい世界。
その世界の理論化は誰かがするでしょう。

いつか見てみたいです。

リード姉弟、SD 好発進でしたね!/ほか2014年03月29日

フィギュアスケートについて書くかどうかと言いながら、フィギュアスケートの話ばかり書いていますね。(汗)

羽生くん、世界フィギュア金メダル、また3冠、おめでとうございます!
まっちー、おめでとうございます!(町田くんの芸術が認められたようで本当に嬉しいです…。)
フェルナンデスくん、おめでとうございます!
真央さん、ショート世界最高おめでとうございます!(しみじみと涙です…。)

今日アイスダンスのFD(フリーダンス)が行われたはずですが、なぜかテレビ放送は夜にあるみたいでまだ見ていません。
SD(ショートダンス)はテレビで見させていただきました。

キャシー&クリスは見事でしたね(^^) 不安定なエッジ(ちょっと揺れたところ)は一箇所しかぼくには分かりませんでした。(解説の宮本(賢二)さんがご指摘なさってましたね。あれはインのところがアウトになってしまったのかな? もう一度録画で見てみたいですね。)
これも宮本さんがおっしゃっていたことと重なりますが、最後まで速度を落とさずに滑り切ったように見えました。
少し振り付けを変えてきたのかなと思いましたが、オリンピックまでの演技と見比べてみないと、これについてはちょっと記憶が心許ないです。
キャシーとクリスの力強さと明るさがよく出ていました。そして、それ以上にお二人の素晴らしいところ、やさしさの溢れる演技だったと思います。
ツイズルでの上半身の動きが滑らかに美しく流れていて、規定のトゥでのステップのあたりも、ふわっとあたたかい空気に包まれたようでした。
速度を保ちながらも緩急がついていて、ストップ、滑り出しともにクリアだったのではないでしょうか。
これでぼくの好きなFDの「Shogun」が見られます。とても楽しみです。
こうなったら、一気に150点を超えたいですね!
世界フィギュアには行けなかったのですが、リード姉弟出演のアイスショーには行く予定です。より磨きのかかったプログラムが、そしてお二人の笑顔が見られますように!

ぼくはソーシャルダンスを見るのは特だん好きな訳ではなく、それは見るよりするものなのでしょう。当然かもしれませんが、見るならソーシャルダンスよりバレエの方がいいです。ただ、アイスダンスは見ていてとても楽しいですね。
時々不思議ではありますが、シングルやペアよりアイスダンスの方が寧ろ競技的(スポーツ的)と感じるときがあります。細かい技を競っているシビアな雰囲気を強く感じることがあるからでしょうか。

   *   *   *

町田選手は、もう何と言ったらいいか分かりません。
とくに「エデンの東」は、今回の世界フィギュアの全男子選手の中でも一番の名演だったと思います。
真央さんとまっちーのパフォーマンスは、ぼくは特に好きです。特別に名前を付けておらず、日本的なスケーディングとか何とか、そのつど勝手に言っているのですが、こうしたタイプの表現がもっと世界で認知されてほしいものです。
日本選手が得意な表現の仕方を、もっとスケート連盟は世界にアピールしたほうがいいと常々思っています。

真央さんの表現と言えば、「浅田真央の芸術」という恥ずかしいタイトルを付けてブログを書いていますが、読み返してみると、何と言うか、とても分かりにくい文章で申し訳ない気持ちです。
機会があれば、いったん立ち止まってもう少し分かり易く書いてみたいと思いました。
ちょっと美学という枠にとらわれ過ぎの文章ですよねぇ……。

  *   *   *

こういうブログ記事で一緒に書きたい話ではないのですが、フィギュアスケートに関して余りに余りだと思うので、ひとこと書いておきます。
韓国はIOCに正式に提訴しているのですね。
ヨナさんの演技を見て金メダルだと思い、署名までする人が200万人(でしたか)もいるという話に既に呆れていましたが、正式提訴に至っては呆れ果ててしまって、どう考えたらいいのか分からないほどです。
まずヨナさんのあの演技で銀メダルという時点で十分過ぎるでしょうに、どこをどう見て金メダルだと思うのでしょうか。
いえ、というより、メダリストたちは皆いい演技をして結果として僅差と言える、ハイレベルでよい戦いだったとは考えないのでしょうか。

別にその署名をしたような人に対して話をしていた訳ではありませんが、ぼくもISUについて色々と書いてきました。
けれども、フィギュアスケートの内容について何も考えていない人が、韓国には相当数存在することがはっきりしたように思います。
「山犬」だか何だか知りませんが、ただヨナさんを持ち上げたいだけで、フィギュアスケートそれ自体はどうでもいいのでしょう。
そういう国民性を持っていると知識として知ってはいたものの、それほどまでフィギュアスケート自体に対する愛情や関心がないのかもしれないと考えると、今までぼくは何をムキになって書いていたのだろうと、バカバカしくさえなります。
文化も芸術もスポーツも「国威発揚」の道具として考える人が多すぎるのではないか。そう考えてしまいます。大したナショナリズムです……。
日本に悪い意味での「マオタ」がいて、ぼくもその一人なのかもしれませんが、韓国にいる悪い意味での「ヨナ・オタク」は、比較にならないほど多いと推測できそうです。
というのも、あれだけの数の署名は他競技であっても日本ではとうてい無理でしょうし、ワールドカップやWBC、F-1などで既に韓国の世界的に悪い評判を耳にしているからです。(スポーツと政治とは切り離すべきだと考える人々の力が弱いのでしょうか。)

今まで書きませんでしたが、韓国とは政府レベルでは距離を置くべきでしょう。スポーツでは二度と関わりたくありません。
ぼくは民間での交流は大いにあって然るべきだと思っています。
それには議論や対話(それができるなら、ですが)が含まれますし、言論での対立もまた日本そして世界を豊かにするだろうと考えるからです。(時にはケンカもいいのではないでしょうか。ぼく自身は暴力は嫌いですが。)
日本と韓国の保守派同士が言い合いをしてみるのもいいと思います。
しかし、政治レベルではもう、十分な距離を置いた方がよさそうです。パク大統領を見ていてもそう思わざるを得ません。
ただし「在特会」に象徴されるような完全なレイシズムは論外です。
悪質な在日非難も許されるものではありません。特に二世・三世といった方々まで「標的」とするのは卑怯な行動だと思います。

取りあえず……韓国のフィギュアスケート、スポーツに関する行動には呆れ果てています、という話を書かせていただきました。<スポーツに関しては>一刻も早く国際舞台から姿を消して欲しい……。
自分で自分を嫌に感じもますが、このように書くのも仕方ないかもしれないとも思いながら、今回はここで筆を置きましょう。(溜息……。)

浅田真央の芸術(2)2014年03月23日

フィギュアスケート独自の理論は、体系化されているかどうかは措いても、もちろんあると思います。手許に『フィギュアスケート 美のテクニック』という本があります(樋口豊監修、新書館)。帯には「フィギュアスケートには独特の美学がある」と書かれており、本の中には、PCSの5項目に合わせて「あでやか」とか「苦しさ」という美的形容辞とともに美しい写真が掲載されています。(しかし実際には、お分かりかとは思いますが、学問的な美学いわば芸術の哲学が論じられている訳ではありません。)
こうしたフィギュアスケート独自の歴史に由来する表現の他に、最も参照されるのはダンスの表現でしょう。しかし、例えばバレエほどの歴史はないフィギュアスケートの場合、ある表現の「定型」に当たるようなものは比較的少ないと思います。

さて、どうして私が真央さんの演技に対して「美しい」とか美学的な意味で「すごい」と感じるのでしょうか。身体芸術の表現には多数の人が共通して感じるだろう形はあると思います。先に挙げた本の中で述べられているようなことがそれです。また、全てのスケーターにはそれぞれ異なったクセや得手不得手があります。それらは個性に結び付きます。
以下は寧ろ批評理論に深く関係していることですが、あるスケーターに関して私達が持っている知識は、当然ながら芸術体験に含まれます。もう少し穿って言えば、それもまたある芸術、作品、ダンサー、スケーターの固有性を構成します。この知識による構成を否定しようとした流れがありましたが、現在その流れは通過されています。(代表的なのがフォルマリズムとニュークリティシズムですが、今でも時おり作品主義という言葉を見かけることがあります。)

リズムに注目したときフィギュアスケートの場合、私達は先ず視覚的にその動きに反応するでしょう。次に、ほぼ常に音楽が流れるから聴覚的に音楽的なリズムに反応するでしょう。ですが、それだけではありません。先に触れたように、どのように腕を曲げているか、首を傾けているか、それらがどのように動いていくか、そうしたことを総合したリズムの全体を、スケーターとともに私達も息を止めたり吐いたり身を乗り出したりしながら感じていくのです。
フィギュアスケートならではの動きもあります。ジャンプの前に2段モーションになっているとか、エッジに蹴られて氷が飛び散っている様子であるとか……。

真央さんに関して言えば、私達は彼女の苦労を何かにつけ知識として得ています。どのジャンプが得意で何を苦手としているのかといったことも月日の経過とともに知るようになります。特に、最初のジャンプがトリプルアクセルであると知っているとき、跳べるか廻り切るかパンクしないかと、ハラハラドキドキして見るに違いありません。これだけでも体験できない情動なのです。
より一般的に言えば、ある選手が2回転のトゥループを余裕でできるのを知っている場合、体調も悪くない中で無難にそれをこなそうとしている場合、それほどハラハラしないと思います。しかし、3回転に挑戦するつもりだとか、足を痛めているということを知っていれば、また違う感情を持つに至るでしょう。
真央さんに話を戻せば、私達は彼女が常に何か(トリプルアクセルに限らない)に挑戦していることを知っています。コツコツと努力を積み重ねる人だと知っています。(因みに私は、真央さんがトリプルアクセルを回避したり封印したことはないと思っています。)

真央さんのリズムの取り方は独特です。もちろん普通の意味でのリズム感も相当いいだろうと思っています。リズムが強調された動きで私が特に感歎したのは「仮面舞踏会」のときです。滑らかさと軽さ、そして重さが何故か不思議に調和している。ワルツのリズムと、無二の流れるような動きがなんと気持ちいいのだろうとびっくりしました。それは関節から指先まで含めたリズムであり、とても下手に比喩的な言い方をすると、リズムのハルモニアです。緊張感と浮遊の感覚です。
真央さんがシニア・デビューした頃は、よく妖精という言葉が使われたものです。彼女は軽やかに飛翔しているような妖精というイメージと、力強さや重さを共存させることができるスケーターなのだと強く思ったプログラムでした。

いま書いたように「リズム感がよい」という言葉はよく聞きます。少なからぬ人は、マイケル・ジャクソンやマニュエル・ルグリのような人をイメージするかもしれません。それは全くその通りです。ですが、その際ここで美学や芸術論として述べている(つもりの)意味でイメージされているのかどうかは分かりません。
少なくとも、その人だけから感じ取るリズムとそこから一般的なリズムとを比較考察するなり、どこまで敷衍させられるのかを考えるなりしていなければ、このブログ記事で言っているリズムとは概念の内容が違っていることになります。フィギュアスケート一般を語るためには特定の人、ここでは先ず真央さんを語ることが必要なのです。

ここまで読んで下さっている方の中には、いつまでたっても、真央さんの何が美しいと言いたいのか、あるいは具体的にどこがどのようによくて美が云々と言っているのか、結局何が言いたいのか分からない、イライラするという方もいらっしゃるかもしれません。
自分自身、前々段で少しは触れたものの、具体的に書くところまでいっていないのでイライラしています。けれども、より重要なのはそこではありません。私が真央さんのリズムについて考えていること、そのことが大事なのです。
この点については、「美学」や「芸術論」 またそれらが日本語の「美しい」や「美」という言葉をどう論じているか、もし私以上に詳しくないという場合は、美学の書籍等を開いてみて下さい。(私にはこれ以上説明するエネルギーを持ちません。)美学と制作論(安易な表現をすれば「ハウ・ツーもの」)は異なると私は理解しています。

今回はこの辺にて失礼します。(疲れました(>_<))

もし続けられれば、残り二つのキーワード「抽象表現(主義)」と「垂直次元」について述べたいと思います。リンクの空間的デザイン(平面的デザインでなく)の話もできたら面白いですね。望むべくは「リズム」についても言い足りないところが多々ありますので、少しでも書ければいいなとは思っていますが……、どうなることやら……。


★もうすぐ世界フィギュアですね。そちらを見るのに忙しくなりそうです(^^)


【つづ……けることができたらいいのですが……。(^^;】

浅田真央の芸術(1)2014年03月23日

大風呂敷を広げ過ぎたタイトルですね。それは書いている本人が一番分かっていますので、突っ込まないで下さい。
実は、先日コメントをいただきましてそれにお返事を書いていたら長くなり、いっそブログ記事としてアップしてしまってもいいのではないかと思って、こちらに載せることにしました。
ですから、元々はタイトルのような大袈裟なことは考えておらず、レスを書いていたら長くなってまとまらなくなったものに加筆した文章です。文中に出てくるmisadonさんというお名前はコメントを下さった方です。

スポーツと芸術について述べるのはひどく難しいことだとよく承知しているつもりです。芸術については、美学や芸術論、批評理論など色々な学説、理論があり、その中に幾つかスポーツの芸術論は既に存在しているようです。先ず何といっても私はそれを殆ど知りませんし、ここではそうした理論から離れて自由に書かせていただこうとは思っています。ただ、芸術について書くのですから全く自由にという訳にもいかないことでしょう。むしろ少しでも美学的な考え方に近づけたらいいなという感覚は持っておこうと思います。

スポーツと芸術が親近性を持つことは何となくでも理解できるのではないでしょうか。芸術の起源の一つとして「技術」と言われる営み、より広い意味で捉えるために「わざ」という言葉を使って表される営みを想定することができるでしょう。そうすれば、わざを競うスポーツもまた、芸術と起源を同じくしているかもしれません。
芸術という概念は近代(曖昧な区分ですが)以降の産物であり、尚かつ西洋を中心として発達してきた思想と共に存在する、もっと言えば、そのような思想と共にしかあり得ない概念です。そして、その思想が「美学aesthetics」として確かな地位を持つのは、少なくとも18世紀を俟たなければなりません。また、スポーツという概念も近代的な意味を付与されて、様々な経路をへて現在につながっています。
身体を使って何かを競い合うという行為は、古代に世界の各地であったことでしょう。ただ、現在の意味で運動やレジャー、スポーツ等と認識されるている事柄は、21世紀に至って改めて多くの考察が必要なことのように思います。
だからと言って、古代に美学がなかったとは思っていません。プラトンにもアリストテレスにも美に関する考察が存在しており、現在でも通用する内容が記されているのは周知のとおりです。

前置きが長いですが、スポーツと芸術、特にフィギュアスケートと芸術に関して何か書くとなると、その難しさを説明せざるを得ず、実は、前回の「4分間の奇跡」という文章の次に真央さんの表現性や芸術について書こうと思いながら書けなかったのは、その難しさ故です。今回コメントへの返事という形でこういう機会を得られたことに、misadonさんに改めて感謝申し上げます。
少なくとも美学や批評理論への言及がなければ、ただでさえ誤解ばかり生じそうなところに、誤解の上に誤解を積み重ねていくことになって、とんでもないことになるでしょう。

さて、いろいろな説や理論から自由に、あるいはせいぜい付かず離れずでこれから書きます。まず、真央さんの芸術について考えるにあたって、幾つかキーワードを挙げておきましょう。ざっと思い付く言葉は「リズム」「抽象表現(主義)」「垂直次元」の三つです。
他にもっとあると思われるでしょうが、現在フィギュアスケートの美学(あるいは芸術学)は皆無に等しいのですから、私がいちから系統立てて論じるなどといったことは不可能事であることを、もう一度念を押しておきます。また、フィギュアスケートをただただスポーツとして、もっと言えばある枠内での競い合いとして以外に考えない方は、この文章をお読みになる必要はまったくないと思います。
(因みに「付かず離れず」という語は日本の伝統的な芸術を考える上で大切な概念の一つです。漢字で書くと「不即不離」ですが、これは特に歌謡(うたい)や楽器(三味線)の表現法や響きを表すために、江戸時代には使われていた概念です。)
さらに断っておきますと、マスコミでよく耳にする「表現力」という言葉ですが、どうも私の考えているそれとは意味内容が異なっているようですので、ここではなるべく使用を避けたいと思います。(その説明もしていたら長くなりますし……。)

misadonさんがおっしゃったように、基本的に真央さんが表現しているのは真央さんだと私も思っています。一般に何かの「表現」というと、作者の意図とかストーリーが示す寓意性といった内容を思い浮かべる人も少なくないのではないでしょうか。けれども、これらは少なくとも「近代美学」がまとめあげた方向に沿っており、その範囲を超えていないと思います。
そのような近代美学は、しかし、現代の芸術に関しては時に無力であるほどに、芸術概念そのものが変わり続けているのが現状です。加えて、スポーツの概念も判然としている訳ではなく変わり続けています。専門家でもないのに、そんな内容に触れようとしているのですから無茶な話です。

上記の三つのキーワードを一つずつ詳しく書こうとするだけでも、私はこのブログに何か月もかかりっきりになるでしょう。ですからここでは、雑な素描をさらに荒っぽく素描する程度のことしか示せません。

まず、リズムをキーワードとして考えたのは、スケートのみならずスポーツが動き/運動に関係している、またはそのものであるからです。身体の動きと表現・芸術と言えば、すぐに思い付くのがダンスででありまた演劇です。
踊ること/ダンシングや演じること/アクティングとしての芸術表現、身体的なパフォーマンスには、確かに既に何らかの理論付けや考え方があると思いますが、私は詳しいことは知りませんし、また存在するにしても、まだまだ理論や学説のようなまとまった内容を持っていないようです。

フィギュアスケートに関して私が書いてきた文章中に、スポーツと芸術の融合とそのアポリアという表現は何度か出ていると思います。フィギュアスケートがスポーツの中でも特に芸術と親近性が高いことが、身体(表現の)芸術にとって、同時にスポーツにとってどのような意味を持つのか、これは恐らく専門家にとっても今後のかなり難しい課題となるでしょう。ここで私が指摘しておくのは、ですから、リズムに留めます。

動き(運動)を伴う、または動きそのものが芸術表現であるとき、強固に結びついている概念は時間です。時間に関係している芸術の代表格として音楽が挙げられますが、映画、演劇、文学どれをとっても時間は関わります。ただ、関わり方はそれぞれ微妙な違いがあるでしょう。(ちょっとひとこと挟みますと、人間の生(活)それ自体が時間的であることは、ずっと頭の隅に置いていてもよいだろうと思います。)
フィギュアスケートと親近性のある芸術として、つまり「似ている」と思わせる芸術としてダンス、特に西洋の確立された芸術ジャンルとしてバレエがあります。他に、総合芸術と呼ばれるようなオペラや映画があります。こうした似ている芸術は、折々参照されてしかるべきでしょう。
こうした芸術として認知されている営為をマッピングしていくことは大切なことです。かつて音楽が数学の一分野と見做されていた時期もありますから。しかし、そろそろ話を進めたほうがよさそうです。

リズムと言ったとき、普通は音楽で取られる拍(はく/拍子)のようなことを考えるでしょう。けれども、現代においてはそうした3拍子とかポルカ、サンバといった既存の音楽が持つリズムだけを、言い換えれば舞曲に内在しているものだけをリズムとは呼びません。少なくとも私は、そのような範囲内に留めておくべきでないと考えています。
代表的で、ひょっとしたら極端かもしれない例は自然の音です。風が吹けば必ず何かが揺れて音が出ます。そうすると、そこに音楽が認められます。(認めない人は認めなくても構いません。)リズムのない音楽はありません。学校等で音楽の3要素としてメロディ・リズム・ハーモニー(和音/和声)があると習うことがありますが、これも私にとっては間違いです。音楽=(イコール)3要素という等式は成り立ちませんが、しかし音楽にはどれかが含まれますし、3要素のいずれかがあれば音楽になり得ます。

このような広い意味でリズムを考えるなら、運動が必ずリズムを伴うことは明らかでしょう。音を出さなくても、いま私が手を2、3回振ればリズムが生じています。空中に手で円を描いてもリズムが生じています。このように広い意味でリズムを考えなければ、身体芸術の動きは語れなくなります。
実は身体芸術でなくても、例えば映画でもリズムは常に存在します。映像中で人や物が動くのはもちろん、フレームの移動やショットとショットのつなぎ(編集)もリズムを生みます。当然見ている人の目の動き、顔や姿勢を動かすこともリズムを生みます。ですから、リズムにとって身体はとても重要です。そしてより本質的なのは動きであり時間です。


【続く】