精神医学と folk pshychology について少し……2007年09月17日

ミクシの中で少し精神関係についてやり取りがありましたので、僕のレスを一部書き換えて(ついでに書き足して(^^;)ここにアップしておきます。。。
話がつながるように直したつもりですが、どうしても目が行き届かず、どこかつながっていない部分があるかもしれません。m(_ _;)m

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医学というのはややこしいもので、先ず患者に何らかの症状/症候があり、それを鑑別診断しなければなりません。そしてその背景にはそれを理解しようとする様々な理論(病理学)があります。

ですから、ここでは医学の中でも精神科の話ですが、日常的用法としての日本語で捉えると、どうしても無理が生じます。それは、僕が前の日記「覚え書きの寄せ集め」で folk pshychology と書いて批判したものを想起させます。

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※ folk pshychology について…(前の日記から引用)

 folk psychology という言葉がある。訳語として現在では何が定着しているのか知らないが、僕(たち)は学生の頃「通俗心理学」という訳を使っていた。心理に関して個々人が持つ、一般的で常識的な理論を指してこう呼ばれる。特に検証を受けたものではなく、自らの体験と一般的で社会常識的な枠組みから成る人間心理に関する体系で、体系ではありながら非整合的であることを特徴として含めてもよい。

 多くの人がこの folk psychology を使って他者の心理を理解しようとしている。それ自体は人間が発達段階で遺伝と環境によって得ていくものだから、良いとか悪いとか言うものではない。しかし、いつまでも folk psychology を信じていると、実際の心理学とは随分異なった信念を得る可能性がある。
現在学問として成立している心理学が必ず正しい(=真である)などとは、全くもって言うつもりはないが、 folk psychology だけを参照していては視野が狭くなると言うことは可能である。そして、この folk psychology は良い作用もするが、時として偏見→差別の原因となり得、もし、人権や差別に対する「感覚」を培おうとする場合があるなら、その妨げとなるだろう。

 補足として……。理由はここではさておき、何故か人は自分の心については自分が(時には最もよく)知っているという、一種の思い込み(信念やドクサ)がある。精神科になると、それは当然のように顕れる。しかし不思議なことに、内科や外科になると、専門的なことは専門家である医者にしか分からない、と考える傾向があるように思う。

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folk pshychology で精神疾患を考えるときの危うさとして、例えば、鬱病(特に中度〜重度)の方、或いは急性期や回復期の方に、或る人が、自分の中で今までに得た心に関する理論を当てはめようとすると、場合によってはその人を追いつめることになるでしょう。(最近知られてきたように、鬱病は死に至りかねない、非常にリスクの高い病気です。ついでに書きますが、神経症も死に至りかねないリスクを持った病気です。)

鬱病でなくとも、昨今知られるようになったPTSDで特に初期の方に対しても、(folk pshychology による理解だけでは)症状が悪化する危険性があると思います。
鬱病やPTSDの認知度は上がりましたが、これらの病状がはっきりしてきたのも、長い臨床研究の積み重ねがあったからでしょう。

もちろん、その人その人にあった方法(民間療法や伝統医療……今は代替医療と呼ばれることが多いですが…)を選択して、最良のやり方を模索していくのがいいのだと思います。(だから、西洋医学だけが万能ではないです!!)

例えば、ずっと同じ動きだけして他は何もしないという症候があり、それをどうすれば緩解、快癒へとつなげられるのか。。。その病理を考えて、最も適した療法を選択する。
関節が痛いという症候がある。それにはどんな病理的原因があるか考えて、最も適した療法を選択する。
血糖値が高いという検査上の症候が見られる、その病理を考え、最も適した療法を選択する。。。
(それは、現状ではそうするしか方法がうまく見つからない。。。残念ながら、かもしれませんが。。。)

逆に、患者側が必死(それこそ死ぬ思いで、でしょう!)になって自分に合った何かを探していると、例えばいい先生に巡り会えたりします。それだけでも、本当に大きな努力の成果だと思います。

もちろん僕は素人ですので、そんな専門知識を持ちあわせてはいないけれど、患者側には患者側の情報源やネットワークがあります。医学の専門家よりも役に立つ情報が、時には得られます。

患者には患者の、障害者には障害者の、医療者には医療者の、社会には社会(と、ここは飛びすぎですが(^^;)のそれぞれの見方がありますが、社会的通念には、余りにも個を無視した論理が溢れているように思うのです。
それは医療だけの問題ではなく、福祉という観点から見ればそこここに見られると思います。

社会という視点に飛ぶことにも理由があります。例えば、、、
透析治療の社会的認知が広がるに従って、以前ほどの、例えば「就職差別」は少なくなったと思います。
ストーマについても認知が広がることで「汚い」といった言葉をかける人も減ったでしょう。
SIDSという原因不明の乳幼児の突然死症候群もありますが、厚労省の研究班等の成果によって「親が悪い」といった偏見も、少しずつでしょうけれど、減ってきているように思います。
鬱病も認識が広まって、「頑張れ」と言わないようにといった認識がされてきたようです。ある精神科医の研究では、日本の年間の自殺者約3万人のうち、4割程は鬱病だろうという推定もなされています。
HIVや肝炎や(特に1型の)糖尿病等も同じではないでしょうか。

より広い話で、文化的にもメインストリームの流行や、社会の多数派の発想法を考える時に、対象とされている人々が余りにも絞られてはいないか、そんなことを考えると、全てがつながってくる……そんなふうに感じています。しかし、その視点は決して無駄ではないと。(そして、頭の中は混乱してしまいますが。。。(笑)orz)

ちょっと羅列しますが……m(_ _;)m
アメリカでのネイティブ・アメリカンへの政策(もちろんアメリカだけでなく「先住民」と呼ばれる人々への各国政府の政策)の問題。日本ではアイヌや琉球さえ無視して未だに単一民族という人がいて、信じられません。
中国等で見られる「搾取工場」と呼ばれる所での労働者。障害と呼ばれるに至る(社会的)経緯。パソコンを使える私たちとパソコンなんて無関係に戦時下や貧困にある状態。近所に住むおじさんは、がんでなかなか働けないし、北九州では餓死事件が起きてますし、フランスではホームレスの住む場所にネズミの殺虫剤がまかれました。
インドやバングラデシュでは今、大洪水で生活ができない人々が沢山います……と、ここでこれを挙げたのは、何故かマスコミがこれについて非常に報道が少ないからですが……、とこうした話は挙げるとキリがありません。そして、全てはリンクした問題だと思っています。

その中で、精神医学と呼ばれる分野での無理解──時には医療関係者や家族が「敵」であったりすることさえある──もつながっており、それが僕にとっては身近な問題なのです。

話が大きすぎるかもしれませんが、こうしたつながりを意識しながら考えないと、医療・ケアも深くは見えてこない、そんなふうに思っています。

もちろん!  folk pshychology が悪いと否定している訳ではありません!
folk pshychology も folk theory も良い方向へ導くことが必ずあるでしょうし、僕自身、folk pshychology を持っているのが当然ですから♪

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以上の話は、僕がタイトルに関して考えている一側面を書きだしたのに過ぎないのであって、例えば「反-精神医学」という流れもあり、それにも共感するところがあります。
他にも、特に嚆矢となったM.フーコーら、「病」は作られるという観点からの研究の流れもあります。

マスコミに頻出する「心の闇」という言葉があり、精神科医が共に登場することがあります。個人は見るが、システム(社会)は見ないという、恐ろしさを感じる風潮です。
理由は分かりませんが、最近マスメディアで「知的障害」が取り上げられることが多くなっていると感じています。くれぐれも様々な観点、立場からの意見が登場することを願っています。

最後に一つ加えておきます。WHOの「健康」の定義を見ると、恐らく普通に言葉を理解する人にとっては、難解な定義です。というより、どう解釈をすればいいのか分からなくなります。
その例を取ってみても、「健康/病気」の定義は不可能なのではないか、と僕は考えています。

僕の学生時代に科学哲学をメインに勉強していた時期、頭から離れず、かつ悩ましい問題がありました。それは、医療という現象です。医療という概念から更に絞って、医学という領域を考えても、既に「臨床」が含まれているのです。
生理学ならまだ自然科学としての扱いができますが、こと医療になると、その複雑さは頭が硬直して体中が痒くなるほどでした。(笑)

実は、医療は経済(学)も重なっていますし、法(学)も福祉(学)もそうです。政治(学)もですし倫理(学)もです。
単純な話ですが、お金がなくては医療を受けられません。アメリカ型の保健制度は、如実にそれを物語っています。そのためにも、(本来の役割を果たして欲しい)メディカル・ソーシャル・ワーカーといった方々が必要なのです。
世界の中で、日本はすぐれて保健制度が整備されているほうの国だと思います。しかし、この制度でさえ、取り残される人々がいるのが現実です。

日本は医者の数(国民一人当たり何人の医者がいるか)が先進国の中でもかなり低い上に、患者数は多いのです。
詳しい統計やWHOの定義等は、ネットで調べればすぐに分かるでしょう。

話が逸れていますが、folk pshychology の持つ危うさだけでも指摘できれば、僕のこの長文(?)は成功かな、と思います。


★追伸(?)

本当に病気で苦しんでいる方が沢山おられます。(身近な精神科疾患の話を、今回は書きましたが。)そして、どうすればその苦しみから少しでも楽になれるんだろうと日々「闘病」していらっしゃると思います。

安易に精神疾患を論じることは、僕にとっても怖いところがあるのですが、それ(僕)以上に、特にネット上では安易な論が蔓延しているような感があります。悲しいことに。。。

上の本文の最後で書いたことは大切に思っていることなのですが、それとともに、安易な論ではなくて、精神疾患に関して(僕も含め)もっともっと理解を深めてゆければいいなという思い、、、それが少しでも伝わってほしい、、、かなり切実にそんな思いを持って書いた文章でした。

「甘え」や「逃げ」という安易な日常語で、日々苦しんでいる人を追い込まないでほしいです。

もっともっとこの社会、世界が寛容に満ちますように。
平安と慈愛を得ることができ、それを広げられますように。
そして何と言っても、僕にその心が少しでも生きていてくれますように。

覚書きの寄せ集め?(笑)2007年09月02日

メモ(覚書き)を徒然に……。

 最近コミュニケーション(伝えること、伝えられること)の難しさを覚える。根本的に人間は分かりあえる生物ではない、と確信的に思いながらも、分かりあえる契機もあるとも思う。時に、コミュニケーションとはそんなに大事にされるべきものかと、疑う気持ちが起こる時さえある。それは、僕の一つの堂々めぐりなのだろう。ただ、人間は共鳴することができるのだという、直感的な予感を自分は持っているようだ。

 コミュニケーションと言うと、思い出す言葉がある。学生時代に英文科の先生が、言語とは理解するためではなく誤解するためにあるようなものだ、そんな感じのことをおっしゃった。余り好きでない(寧ろ反感を抱いていた)先生だったが、この言葉は何故か強く印象しているのだ。

 伝えることから情報という言葉を連想する。どこで読んだか忘れたけれど、「情報」を「外情報」と「内情報」に区分した人がいる。前にもネットで書いたことがあったが、情報の英単語は(普通)information である。in は何か中にある感じ、form は形あるモノという感じで、形になって多くの人々がアクセス可能な何かを指す概念だ。

 この区分では、いわゆる普通に言われる情報とは、内情報のほうを指すのであって、確か、その内情報に収まらない情報を外情報 exform として分けたのだったと思う。面白い指摘だ。

 私たちは内情報である記号やモノ(目に見えないモノも含めて)を受け取っているが、実は、そうやって伝える/受け取る(内)情報は外情報があって成り立つ、という論だったと思う。それは全くその通りだろう。

 私たちは皆「時代の子」であって、それを逃れる人間は一人としていない。僕には人間が一人ひとり、そんなに異なっていないと思うときがある。例えば、一人の人間が100年前に生まれたら、100年前の時間・空間の時代の子となる。それが1000年前でも同じだろうと考えている。

 もちろん同時に、人間とは何と多種多様かと思うときがある。

 先の考え方は、歴史主義的と呼ばれるかもしれない。歴史主義からは普遍という言葉を連想する。普遍論争といわれるものがかつてあった。唯名論対実念論という形で古くは日本で紹介されていたが、この訳語は余りにも誤解を生みだし過ぎる。『岩波哲学・思想事典』(1998?)では、音声言語主義対実在論と日本語も変えて説明されていた(と思う。)訳語はともかくとして、こうした「普遍」に関する議論は、未だ続いていると思われる。

 folk psychology という言葉がある。訳語として現在では何が定着しているのか知らないが、僕(たち)は学生の頃「通俗心理学」という訳を使っていた。心理に関して個々人が持つ、一般的で常識的な理論を指してこう呼ばれる。特に検証を受けたものではなく、自らの体験と一般的で社会常識的な枠組みから成る人間心理に関する体系で、体系ではありながら非整合的であることを特徴として含めてもよい。

 多くの人がこの folk psychology を使って他者の心理を理解しようとしている。それ自体は人間が発達段階で遺伝と環境によって得ていくものだから、良いとか悪いとか言うものではない。しかし、いつまでも folk psychology を信じていると、実際の心理学とは随分異なった信念を得る可能性がある。現在学問として成立している心理学が必ず正しい(=真である)などとは、全くもって言うつもりはないが、 folk psychology だけを参照していては視野が狭くなると言うことは可能である。そして、この folk psychology は良い作用もするが、時として偏見→差別の原因となり得、もし、人権や差別に対する「感覚」を培おうとする場合があるなら、その妨げとなるだろう。

 もはや、 folk psychology といった素朴理論 folk theory だけで人間を理解するのは無理だと断言できる時代となった。

 シリーズもののテレビドラマは僕は余り見ないほうだが、最近『ライフ』というドラマを、毎回ではないが見てしまう。一つは、たまたま何かの映画を見ていたら続いて始まったから。いま一つは、新聞の広告に「ライフは現実である」というようなコピーのついた本の宣伝があったからだ。『ライフ』という原作のマンガが、イジメを扱っているということは、その時には既に知っていたと思う。

 子どもの頃、僕は総じればいじめられっ子だった。いじめやすいタイプだったのだろうか。だから、いじめについては敏感に反応する部分がある。僕のケースもまた、一つのコミュニケーションの問題として見ることができるかもしれない。僕は「言い返せない」子どもだったし、全般的に人に何かを伝えることに関して非常な困難を抱えていた子どもでもあった。

 こうした出来事によって、恐らく僕の心は「歪んでいる」だろうと思う。そして何らかのルサンチマンを持つに至っていると思う。しかし、「歪み」や「ルサンチマン」を持たない人間はいない。

 気がつけば、──つまり自分が自分であるという自我の目覚めのようなものが幼少期に訪れるが──僕はその時には既に、自分が他人より劣っているという感覚を持っていた。あるいは、持たされていた。このような感覚や意識を folk psychology が説明できるとは、到底思えない。

 いじめに関する理論の中の「いじめられる側にも責任がある」といった素朴な法則についても、 folk theory としての folk psychology で理解、説明しようとしても無理だというのが僕の見方だ。 それには、何故そういう理論が生まれるのか、またそれが支持される可能性を持っているのか、十分な根拠のある理論なのかと、更に分析や批判が必要な浅いレベルでの folk theory なのである。

 ビジネス書を開けば、そこにはメラビアンの法則とかマズローの欲求段階説、NLP理論だの、パラダイムや暗黙知、エントロピーだの、果ては人間の法則、宇宙の摂理に適っているといった、宗教的な言葉まで飛びだす。確かに、ビジネスというのは総合的で何か一つの説や理論では通用しないというのは分かるが、あちこちからつまみ食いしたような安っぽいビジネス書が溢れすぎているように思う。恐らくきちんと書かれたビジネス関連の書籍もあろうけれど、ビジネス書というだけで手を出す気などしなくなる。大体、もともとビジネス書は嫌いなのだから。

 その上「成功哲学」という、いわば形容矛盾のような言葉は既にありふれたものとなっている。成功と哲学を結びつけ、その「成功」が主に経済的成功を指すのだから、それが哲学と結びつくとは何とも不思議な発想だ。

 最近のスピリチュアルの流行が、18世紀のイギリスを源流とすると言われながら、実際はそれも含め過去の経営哲学と言われた松下やホンダやソニーの「経営哲学」と似通った印象を受けるのは面白い話である。島薗進さんが「新霊性運動」と名付けた最近のスピリチュアルの動きは、日本ではまだまだ浅い段階でしかなく、今までの日本人の行動からして殆どの人が「流行」に終わらせてしまうような気がしなくもない。但し、僕は確実に、世界的な動きとしてスピリチュアルの動きが流れていると感じてはいる。そしてそれは僕にとって希望的な流れである。





 マスコミ組織とそのコミュニケーション(情報伝達)という方向に目を向けると、最近不思議な現象が起きている。朝青龍関の問題がこれほど大きなものとなるとは思いもしなかった。何故日本でこれほどの反響を呼んでいるのか、未だに僕には分からない。そして、全般的な印象を書くならば、日本人とは何と冷たいのだろう、器が狭いのだろうというのが、僕の持つ感想のようなものだ。

 ある精神科医は「詐病」(仮病)と言い、別の精神科医は「鬱病」(の初期症状)だと言う。いずれにせよ、実際に診察していない医者の言葉なので、どちらがより事実に近いのか分からないけれど、それよりも驚くのは日本人がこれだけの関心を示してることだ。あるいは、マスコミが勝手に騒いでいるだけかもしれないが。

 日本で最もメジャーなスポーツといえば、野球と相撲だった。今はサッカーもそうだろう。僕は小さい頃、祖父が相撲を見ていると一緒に見ているのは好きだった。しかし、プロ野球がテレビから流れてくると、かなり厭な感覚を持っていたのを覚えている。一番厭だったのは各応援団の笛や太鼓の「音」だった。一時プロ野球をよく見ていた時期があったが、やはり長くは続かず特にあの「音」に辟易し始めたのだった。振り替えって、相撲もよく見ていた時期があった。千代の富士がまだ横綱になる前くらいから、千代の富士が引退して若貴時代が来るまでだった。中学~高校生の頃で、全く愚かなことに、自分はまるで「通」でもあるかのように振る舞っていた。

 朝青龍関の事の真相はどうか知らないが、ここにも何かコミュニケーションの不幸な成り行きを感じる。モンゴルで日本相撲協会への批判が起きているらしいが、実は僕も協会と横綱審議委員会への不信感は中学生の時に持ち初めていたので、その新聞記事に違和感を感じなかった。日本の若者の口の端にまで上っているのを見ると奇妙に感じる。突然「心・技・体」のような、武道としては非常に難しい理念を持ちだして議論しようとする人がいるが、「理念」の理解や実感の難しさはそれを考えたことがある人なら分かるはずだ。もちろん何より先ずは、それなりに相撲道、武道への関心が必要だと思う。

 異国の地で一人綱を張ってきた朝青龍関の、この一連の悲しい出来事は、組織/システム的な問題も大きいのではないかと思っている。朝青龍関への個人攻撃よりも大切なのは、相撲協会も含めたシステムの批判分析ではないかと思うのだ。これは朝青龍関および「外国人力士」と協会、親方衆、医者、市民、様々な人たち皆のコミュニケーション、意志疎通の機能がうまく働いていないことの、一つの証左を示していると考えている。

 モンゴル人はモンゴル語で聞き、話す。(日本人は日本語で聞き、話す。) 朝青龍関は日本人医師にも新聞記者にも(訳の分からない芸能リポーターにも?)日本語で話さなければならない。そのいわば翻訳・通訳の機能は、どれほどのコミュニケーションを担保できるだろうか。朝青龍関本人にのみ、その機能を担ってもらうとは余りに酷な話である。どう考えても角界の背景や業界用語、モンゴル語、日本語に通じた翻訳者がいることが望ましい。機能しているか分からない異国語間のコミュニケーションを、マスコミはどのように更にマスとコミュニケートしていけるのか。そのような状況で日本の人々は何をどうやって「厳格に」判断しようとするつもりなのか。

 もちろんナショナリズムの問題も頭をよぎる。何故これほどまでにヒステリックな状態が続くのか、僕には分からない。この話についてはネットにアップするつもりはなかったのだが、新聞のトップにある「目次」欄にも大きく取り上げられているのを見て、さすがに大きな問題になっているのだと改めて思った。そして、僕までこういう風潮に乗りたくないという思いよりも、ここまで問題が膨らんでいるならば僕がネットにこの話をアップすることなど小さな出来事だし、それ以上に、いい加減もう止めて欲しいと誰かに伝えたい、そんな気持ちのほうが大きくなったのである。

 朝青龍関がサッカーに興じている様子がテレビで流れたとき、僕は笑い話で終わるだろうくらいに思っていた。それが今は外交問題にまで発展するかもしれないという。いったい、日本人は何を考えてこんなに外国を巻き込む問題にする必要があったのか理解に苦しむ。より冷静になり、日本相撲協会を中心としたシステムを、先ずは分析したり見直したりすることのほうが、よほど今後のためにもなると思う。

餓死とは……2007年07月14日

豊かな日本というけれど。。。
北九州市は一体どうなっているんでしょう??

ネット上の新聞へのリンクです。

朝日新聞
http://www.asahi.com/national/update/0711/SEB200707110049.html

読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070711i416.htm?from=main4

読売新聞九州版
http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/040/040_070712.htm

毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/seibu/shakai/news/20070712ddp041040017000c.html

西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20070712/20070712_015.shtml


どう考えても北九州市の説明はおかしい。
この記事を読んで心の中がギュッとしたので、あえて“挑戦的な”書き方をすると、北九州市の行政職員によって、少なくともこの3年で、3人の“殺人”が行われました。

☆朝日新聞では……

小倉北区役所の常藤秀輝・保護1課長は「辞退届は本人が自発的に出したもの。男性は生活保護制度を活用して再出発したモデルケースで、対応に問題はなかったが、亡くなったことは非常に残念」と話している。

☆読売新聞では……

同市の三崎利彦・保護課長は「対応は適切。亡くなったのは残念だが、保護を打ち切った後のことで、市の保護行政とは直接関係はない」としている。

☆読売新聞九州版では……

 会見した菊本誓・同区参事は「保護開始から打ち切りまでの流れはモデルケースと言えるほど適切だった」と説明。三崎利彦・市保護課長は「担当職員は威圧的な態度を取っておらず、男性も反発しなかった」とした上で、「打ち切り時も『困ったことがあったらまた来てほしい』と呼びかけた。今回の死亡は生活保護行政と関係ない」と、市側の責任を全面否定した。

☆毎日新聞では……

市によると、主治医が2月末に「就労に問題はない」と診断した。三崎利彦・市保護課長は「働けるのであれば就労を指導するのは当然。無理強いはしておらず誤った措置はなかった。『困ったことがあれば来訪を』と伝えていたので、日記の記述は意外だった」と話した。

☆西日本新聞では……

市は「男性が働けると判断した。生活保護の廃止は適切だった。廃止後のことは把握していない」と話している。

……といった無責任な言葉が並んでいる。
まるで他人事である。いや、彼らにとっては実際に他人事なのかもしれない。自分たちは生活保護にかかることはないと信じているだろうし、今、大きすぎる程に問題になっている“年金問題”にしても、(公務員の)共済年金については保護されてきたし、これからも保護しようとするだろう。
ミート社の問題は確かに恐ろしい問題だが、語弊を恐れずに書くと、これまで社会保険庁がしてきたことに比べれば、小さく感じるほどだ。ねんきん機構か何かにするというけれども、職員は“同じ”である。(因みに、給与は上がり、立場は公務員と同等の扱いである。)
納付年金をそのまま使い込んだ者もいるという。それだけでも、民間企業なら、馘首されるのは当然で、刑事事件と民事事件に発展してもおかしくない。

話がそれてしまいました。。。m(_ _;)m
人ひとりが自分たちの責任で“死”に至ったというのに、まるで何も“感じていない”かのような言葉たち。。。
北九州市(福祉課)のホームページを見てみたら分かるだろう。昨年の殺人事件……いえ、餓死事件について、特別の反省をするような内容ではない。

このような理不尽な話は、実は、探せば沢山たくさん出てくる。
今回はこの一件を取り上げたけれども、日本の福祉政策は“誰のため”かが全く理解できない。そう思えてくる。
(その文脈で書けば、年金も一体“誰のため”の制度なのか?)

責任者も見えてこない。官僚・公務員システムは複雑に作られている。
少なくとも、北九州市長は責任者である。

最後に、北九州市長・北橋健治氏への市長直通メールというのがあるので、それにリンクしておきます。
https://www.city.kitakyushu.jp/page/form/form-e-6.html

また、北九州市役所の所在等も記しておきます。
この秘書室というのが、市長への直通と同じように扱われているようです。

〒803-8501 福岡県北九州市小倉北区城内1番1号
北九州市市長秘書室
電話:093-582-2127
FAX:093-562-0710
hisho@mail2.city.kitakyushu.jp

北九州市のサイト(www.city.kitakyushu.jp)からフォームを使えば、
・北九州市総務市民局市民部広聴課
・北九州市小倉北福祉事務所長・菊本誓氏
・北九州市小倉北福祉事務所保護第一課長・常藤秀輝氏
各宛先に文章が送れるようです。

※近く、抗議文を送りたいと考えています。。。

ロゴセントリズム2007年06月11日

実は、これはミクシィに書いた日記(内容は前回のブログ「ロゴス?」と同じです)にいただいたコメントへのレスです。
ちょうど、前回の話の続きみたいになっていますので、載せておきます。(=^ ^=)


♪ここから〜

余りにロゴスの語法が多様なために、ロゴスについて語ることは非常に難しいですね。
超越性を持たされてきたロゴスですが、その超越性をロゴセントリズムとして、確かに、デリダは示唆に富む(富みすぎる?・笑)批判(分析)をしました。そして、ロゴスがこの超越性を一つの意味として獲得するには、それなりの歴史的経緯があったのも事実ですね。
ロゴスはギリシア語ですが、語源的には「集める」というような意味合いだったかと思います。集めて秩序立てる、その原理が超越性(という意)を獲得していったと言えるでしょう。

デリダが批判するロゴスは、この獲得された意味を持つロゴスを指し、更に私たちの発見として、このロゴス的意味が世界的にも存在していることを気付かせてくれました。つまりは、西洋中心主義だけでなく、超越性を持つ何らかの疑似体系的なレベルの理、ことわりは、東洋にも見いだすことが可能となったと考えていいと思います。

しかし、人間の考えることは人間性の問題であって、それが人間中心主義であることは、一種の宿命となります。その宿命を背負いながら、ロゴスをどう位置づけるかもまた、人間的な営為であり、その時にロゴスに意味付けするのもまた、人間の営為としか言いようがありません。

ここで論理上の矛盾を生む所以が現れるのですが、ロゴスを言語と置き換えるのか、論理と置き換えるのか、神と置き換えるのか、歴史と置き換えるのか、数と置き換えるのか、宇宙-自然と置き換えるのか、何れにせよ、それぞれが自ら何らかの壁を形作ることになるでしょう。ロゴスが形而上学である以上は。。。

基本的に、私は、それを全面的に回避する必要はないと思います。そこに言語の限界があるとするならば、言語的アプローチ以外の方法を含めて、デリダ的な脱構築も参照しつつ、生の在り方として少しずつでも変容や生成を続けることを知ることができたと考えることができるからです。もちろん、それは進歩−前へ進むことを意味していません。

……な、長すぎます。。。(^^;
僕も訳の分からないことを書いてます〜(笑)
読み返したら、変な文章もありますけど、ここはまあ、ええことにしましょう♪ また続きが書けたら面白そうかも〜?(←自分のためにですけど(;^_^A)(=^ ^=)

ジャック・デリダ2004年10月13日

2004年10月13日


今月、8日深夜から9日未明ごろ、膵臓がんで亡くなったとのこと。。。享年74歳。

彼の思想は難しすぎて、私には分かりません。(^^;

彼は希望を語ったろうか。恐らく、イエスである。
自分自身の足もとを、ずらしながら現在から過去を見、そしてそれは常にすでに現在に収斂している。
現在への否定と肯定。差異を構築する人間の必然性と可能性。(脱構築。。。)
突然だけれど、今、私は、東洋思想と彼を関係づけて彼を見る気にはなれない。(東洋思想研究者(?)の側から、彼の問題設定を自分の中に引き入れて語りそうな感じがするから。。。)

分からないのにこんなことを書いても仕方がないかもしれません。
私は爪の垢でも煎じて飲んでいたほうがいいのかもしれませんね。(^^;

デリダさん、これから勉強させていただきます。m(_ _)m