教会☆2007年10月15日

滝野川教会01
久し振りに教会(日本基督教団/プロテスタントです)へ行ってきました。
大阪にいるときは近くの教会に3、4年間ほぼ毎週、聖日礼拝(主日礼拝;日曜日の礼拝)にこんこんしゃんと顔を出していたのですが、東京へ来てからはすっかりご無沙汰してしておりました。

教会へは、前々から行きたくて仕方なかったのですが、なかなか二人ともそこまでエネルギーを出すことができず orz 随分のご無沙汰でした。

今回行った教会は、大阪に行っていた教会よりも大きく何となくカタイ感じがしましたが…。よく言えば威厳を感じると言えるのですが、権威的な雰囲気と言うと「組織宗教」という嫌な感じも受けました。

教会とは面白いところで(?)教会へ「行く」のではなく「帰る」と表現します。つまりは、「本当の」家は教会だと考える訳です。

ただ僕は、<組織宗教>とは距離を保っておきたいと思っています。「教会」なるものが本当に「キリスト(イエス)の宗教」であるのかは疑問のままだからです。
キルケゴールやシモーヌ・ヴェイユが教会と距離を保ち、時には対立することもありました。日本では内村鑑三の「無教会派」という派があり、僕はその考え方に共感を覚えます。
(尤も、キルケゴールは著作を発表してから、牧師として過ごそうと思っていたのですが…。実際は教会批判という態度に出ざるを得ない運命になりました。)

僕が行ったこの日の説教は、しかし、信じないことも主題の一つとなっており、改めて信(信仰)と不信の関係を考えさせられました。

細かいことはさておき、教会は教会でいいものだと改めて思いました。それは日本の社寺でも同じだと思うのですが、キリスト教に触れることのできる教会は、僕にとって霊(spirit)を考えたり感じたりするのにいい場には違いありません。
それでもしかし、神社がより以上にそれを感じる場としていいと感じるのは、やはり日本的な感覚が知らぬ間に身に付いているからでしょうか。

輪廻転生に関する非科学的で非哲学的なメモ(1)2006年11月25日

最近、スピリチュアリズムの話を耳にすることが多い。
80年代後半に、ニューエイジやニューアカデミズム(ニューアカ)という言葉とともに、現在流行のスピリチュアリズムの原形が形作られたようにも思う。

※実際には、ニューエイジやニューアカは、80年代初期には既に語られていたと記憶しているが、シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』が大きなインパクトをもって日本に紹介されたのは、80年代後半だったと思う。

また、現在語られるスピリチュアリズムは、既成宗教、組織宗教、民間信仰とも当然ながら無関係ではなく、そういった宗教性も取り入れた形で進展しているようだ。

ところで、輪廻転生があるのか、ないのか、それは分からない。先ず、輪廻転生の一つの(あくまで一つの)解釈を、これから少し書いてみようと思う。ただ、私自身は、輪廻転生はにわかに信じられない。

輪廻転生を受け入れると、一つの回答を、曖昧ではあるにしても、見ることができる。そこには、人生の無意味さや無価値性を解消する考え方がある。
つまり、生には意味がある、無駄でない、死にももちろん意味がある。

それは、今生もまた、輪廻という巡り巡る魂のプロセスの中に位置づけられるからだ。その魂のプロセスは、神と呼んでもいいし別の呼び方でもいい、大いなる何かとの結びつきが示される。

ここで、少し現実的な方向へ話を持っていこう。私が生きているのは確かだし、私は今ここに存在しているのも事実である。
そこから眺められる、人間的な善も悪も超えた大いなる何か、よりニュートラルな表現をすれば、善悪の彼岸は、やはり、眺めることしかできない。あちら側の岸にあって、こちらの岸に立っている人間は渡ることができないのだ。

眺められるなら感じることはできるのではないか、と考えられるかもしれない。そう、その可能性はある。しかし、私は人間であり、生物である。あくまで人間的な枠を生きているのだ。その枠の中での可能性である。その枠がとてつもなく広く、確固としたものでなくとも。

さて、善悪の彼岸という言葉は、今回の“メモ”では、とても大切である。善悪の彼岸という観念は、無や道の思想と似ている。
この思想では、善も悪もないので、神的な裁きのようなイメージはない。もちろん、人間的な価値/意味などはない。

老子は言う。名付けたり形を与えたりすると、道は道でなくなる(だから、道と仮に呼んでいるだけである)。

私が今のところ、輪廻転生があると前提して、最も腑に落ちる解釈はこれである。つまり、魂が生まれ変わる先は、無であり善悪の彼岸であり、人間的な観念と無関係である。

人間は、意味付けすることを覚えた生き物である。道や、無にさえ意味を与えようとする。そして、複雑な有機的な体系を持つに至る。
様々な宗教、宗教的表象は、実は複雑な意味を含んだ、時に確とした、時に緩やかな体系である。(そこには、スピリチュアリズムを生きたい者を拒む事柄も含まれている。)

現在よく耳にするピリチュアリズムを謳う思想のうち、少なからぬものは、私が腑に落ちると書いた方向へは向かわない気がしている。
もちろん向かう必然性はないのだけれども、私が考えるスピリチュアリズムとは方向が違っており、私は、それをスピリチュアルと呼ぶことに対して、抵抗を感じる時があるのだ。
※この段落は、「輪廻転生」のテーマから外れ過ぎてしまいました。。。m(_ _;)m

カルマを背負い、それを転生した人生で返していくというのも、確かに一つの考え方であり、ある時には非常に有効だと思う。しかし、その先は?
私にとっては、段階や次元を上がっていくとか、成長、進化するというより、善悪の彼岸ヘの道を辿ることを夢想するのが、精一杯だ。