ISU の余りに深い罪〜付記(10-1) キム・ヨナ症候群について2013年10月26日

 さて、それでは……以下、フィギュアスケートに関してちょっと気になっていることを幾つか付け加えておこうと思う。ネット上のどこかで、“キム・ヨナ症候群”という言葉を目にしたことがある。どうやら、韓国の台頭(色々な意味で)を恐れる日本人の心理が、反キム・ヨナ/アンチYu-naという現象として現れている、という議論のようである。
 確かに、特にネット上で、Yu-na選手を攻撃するとともに、保守・右派的な言論を載せるという行為が目立つようになっている。しかし、それは依然として一部の現象であって、多くのフィギュア・ファンはそんなに単純ではないし、また日本人の心理のある面を一般的に語る方法としては妥当ではない。反・韓国の感情や、いわゆる嫌韓の心理とYu-naというスケーターを直結させるのは短絡であるし、Yu-na選手の名をその種の象徴として用いるのは適当ではない。キム・ヨナ症候群という議論、理解の仕方は、ひと言でいってしまえば誤解に過ぎない。
 私を含めて、Yu-na選手に対して心から賞賛を送れないファンがいるとして、私たち、彼らが考えているのは恐らく、なぜ彼女だけがあんなに高い評価、得点を得るのか理解できないという、その一点に集約できると思う。ああだろうこうだろうといろいろ考えてはみるものの、どうしても納得のいく理由が見当たらない。そんなことだと思う。C.コストナー選手、浅田真央選手の点数には納得ができても、である。

 これが例えば、より人気の高い、日本におけるメジャースポーツの代表とも言える野球やサッカーでこのような、アンチ・Yu-naのような現象が起きたならば、○○症候群という理解も可能かもしれない。しかしフィギュアスケートで、いわばナショナリスティックな心理と結びつけるのは飛躍のし過ぎである。何かにつけてYu-na選手と並べて論じられる浅田真央選手が国民的人気を持っているとして、それを考慮しても無理がある。
 Yu-na症候群なり何なりが国民的な、ナショナリスティックな意味を持ち得るとすれば、それは日本ではなくむしろ韓国においてであろう。日本でフィギュアスケートはブームのような様相を呈してはいるものの、やはり多くのスポーツの一つであり、野球やサッカーに比べればマイナーである。
 かつて日韓共催のワールドカップが行われ、韓国チームはベスト4に入る快挙を見せた(実力かどうかは別として)。もし今、同じようなことがあったとしても、サッカーの○○症候群のようなものは生まれないだろうし、また野球の日韓戦があったとして5年、10年連続で日本が連敗していたとしても、野球の○○症候群は起こらないだろうと思う。日本のメジャー・スポーツでもそんなものではないだろうか。

 ただし、もし反日ナショナリズムと不正行為がセットで示されたとしたら、日本でナショナリズムが強く出る可能性はある。しかし、先日サッカー日韓戦で韓国側サポーターが政治的メッセージの強い、巨大な(!) 横断幕を掲げた事件があり、記憶に新しいところだ。それでも日本では大きなナショナリスティックな反応は起きなかった。
 たしか「歴史を忘却した民族に明日はない」といった内容だったと思うが、これについて言うなら、寧ろ韓国側が自身に問うべき命題であり、自身が自身に突き付けるべき問題でもある。彼らが民主化やグローバル化が達成されたと考えるなら、今や韓国の歴史学者、社会科学者、知識人、そして政治家たちが、その命題を自身に対して問わなければばならない時代が来ている。もちろん、日本側が引き続き自身にこの命題を問い続けなければならないことは言うまでもない。それにしても、不思議なのは、韓国のナショナリストたちは「国民」や「民族」「国家」という概念を整理して理解した上であのような文言を考えたのだろうか。ネイションnation、ポリスpolis、デモクラシーdemocracy、民主主義等の概念を如何に理解するかは、現在、世界的な課題でもあるというのに!
 横断幕の文言だけ見れば実にまっとうで尤もな内容だが、他国批判をするには余りにも幼稚とも受け取れる内容である。韓国のどのような層があのような言葉を考えたり支持したりしているのだろうか。ひょっとすると、反日教育を無批判に鵜呑みにしている人たちなのだろうか。それならば理解できなくもない。韓国は儒教が盛んな国だと聞くが、教科書を疑うこともなく受け入れるとは、「学びて思わざれば……思いて学ばざれば……」の句もむなしいではないか。

 ところで私は昔から、十代の頃から日本のナショナリスティックな動きが心配で仕方がない。これ以上ナショナリズム(やファシズム、全体主義等)を膨らませてはならないと思っている。少なくとも明治以降日本ではあらゆる世代で、その質は違っても、何らかの種類のナショナリズムに、人々が汲み取られる現象が起きている。日本だけの問題ではないけれども、多種多様な感情や主張がなぜ、どのようにナショナリズムに吸い込まれていくのかを考えるのは、世界的に共有されている課題だろう。すなわちイデオロギー批判としてでなく先ずは研究課題として。

 話を戻そう……。
 昨今、日本の新世代右翼(?) がヘイトスピーチを行っているが、日本では同時に、更にそれに反対するデモや団体が生まれている事実もある。未だ日本は韓国よりずっと冷静であり続けていると思う。キム・ヨナ症候群という理解は、とんだ誤解である。

★(10-2) へ続く。

ISU の余りに深い罪(3)2013年09月01日

 ところで、旧方式のほうが主観的と思われがちだが、新システムも恐らく同じくらいに主観的である。あれだけ沢山の数字を導入しておいて、客観性はたいして担保されていない。
 新システムでは、TES(total element score トータル・エレメント・スコア/技術点に近い)と、PCS(program component score プログラム・コンポーネント・スコア/表現点に近い)とを合計した得点で、順位が決定される。この得点は、もちろんのこと、審判が演技全体や個々の技の要素の出来具合を判断して、点数を付けたり、加点・減点して算出される。
 どんなスポーツでもそうだが、ルールブックやガイドラインが存在し、それに則って判定が行われる。しかしフィギュアスケートではかなりの程度、恣意的なジャッジング、判定が可能である。
 先ず、既に構造的に、PCSはジャッジの印象によって左右される。だが、それはそういうものだとも言える。「表現力」に対して万人に共通の論理を適用することは、今のところ不可能だろう。
 次に、TESはPCSより客観的に示されるように思えるはずだが、現実はそうなっていない。TESにおいて、加点と減点はPCSに負けず劣らず、恣意的で主観的な印象によって付けることができる。ただ、これも構造的な問題であって、仕方ないと言える面がある。良心的な運用がなされれば、多くの人が納得できる可能性は高い。
 さて一番の問題点をここで指摘しよう。それは「良心的な運用」という言葉と関係しており、Yu-na選手の採点に多く見られる、というよりYu-na選手にばかり有利になされているとしか考えられない、ルールの適用、判定に関係する。
 すなわちルールの適用、運用のされ方がおかしいのであり、これがISUの現行ルールの最大の問題点である。そして改善の一番の近道は、ジャッジの匿名性を廃して、判定の透明性を確保することである。
 たとえこの変更が形式的だと思えても、目的ははっきりしている。どのジャッジが納得できない判定を行っているのかを、我々が知ることができるようにするためである。

★(4)へ続く。

ISUの余りに深い罪(2)2013年08月26日

 誤解しないでほしいのだが、ここで私は、Yu-naサイドが不正をしているのではないかとか、そういうことを言おうとしているわけではない。ISUの行っているジャッジング、採点や判定が納得できないと言っているのである。正直に書くと、前者のように言いたい気持ちは強く持っているが、証拠がないから言えないし言ってはいけないだろう。だから、今はそんな野暮なことはしないけれども、採点が納得できずおかしいからイライラして、おかしい、変だと書かざるを得なくなってしまっているのだ。
 では、何故おかしいのかを当然ながら問うことになるが、残念ながら、私にはそれを検討するだけのデータがない。よって、ここでは採点に疑念を抱かせるようなジャッジング・システムを変更すべきだと主張する。
 疑念を抱かせないためには、何といっても判定の透明性を確保するのが一番である。民主主義の基本的な約束事でもある。先ずは、匿名をやめてジャッジの名前または国籍を公開すべきだ。これだけでも相当の透明性を確保できる可能性がある。
 現行のような“ジャッジされる”側に圧倒的に不利なシステムは、フィギュアスケートの発展を妨げている。ジャッジ、審判がこんなにも保護される理由を、私は思い付くことができない。反対に競技者、スケーターは保護されていない。
 だから、先ずジャッジ(の名前または国籍)を公開制にして、それから次に、ルールの改正と監視システムの強化を図るのがよいだろう。
 ルールについては、現在でもそれほど悪いわけではない。(しかし、旧方式、6.0システムに比べて良いとも言きれない。)順次の改正と良心的な運用が行われればよいと思う。監視システムは今でも存在しているが、ほとんど機能していないように見える。もっと権威を与えて、判定に反映させるように変更したほうがよい。
 さて、以上だけの変更でもかなりの改善が期待できるのではないか。特にジャッジの非匿名方式、公開制はきょう明日にでも決定していいだろう。早すぎるということはない。

 ISUの現在のルール(新採点システム/CoP)は、もともと2002年ソルトレイクシティ・オリンピックでの不正疑惑があったから作られたものである(ことになっている)。それより前、80年代や90年代にもスキャンダルはあった。その中には、JSF(日本スケート連盟)が関わったものもある。
 確かに新採点システムは画期的であった。私が伊藤みどりさんを見てフィギュアスケートを好きになってから、このような“数字に溢れた”採点方式が誕生するとは思ってもいなかったし、慣れるのに苦労した。
 では、旧方式に比べて新システムはそんなに良いものなのだろうか。これに対する答えは難しい。良くなった部分もあれば、悪くなった部分もあると言うべきだろう。
 悪くなったとよく言われるのは、総合的な判断がなされにくくなったという点だ。以前のほうが、技術と芸術が、テクニカルとアーティスティックな面が見事に融合されていたという、強い感覚である。これはそうかもしれない。しかしだからといって、旧方式の中に、感性に訴えかける傾向が強くなる潜在性があるのも否めず、それは余り好ましくない。また、採点が分かりづらくなったともよく言われる。私自身、新システムをいまだに理解できていない。
 そうかといって、新システムのほうが合理的だからよい、と主張するのは間違っている。実際、新システムは合理的というより、主観的という形容のほうが似合っている。新システムの難しさの原因も、必ずしも論理的、合理的になったからというわけではない。基本的に、“足し算をする”というルールになったのだから、数字を足していけば何となく“総合点”にたどり着く。
 ちなみに、合理的=理性的という概念は総合的という意味合いも強く、感性的/合理的という対立で考えることが間違っていることも付け加えておこう。

★(3)へ続く。

ISU の余りに深い罪 (1)2013年08月25日

 ISU(国際スケート連盟)の採点に疑問を持つ声を耳にする。まさに私がその一人である。といっても、全ての採点、判定に対してではない。キム・ヨナ(Kim Yu-na)選手に関してだけである。
 私が疑問を感じ始めたのは、2009-2010のグランプリ・シリーズからだ。決定的におかしいと思ったのは、2010年、トリノの世界フィギュアである。
 明らかに、世界フィギュアでのYu-naの出来はひどかった。フリー・プログラムの演技を見て、ひょっとして彼女は表彰台を逃すかもしれないと私は思った。というより、この大会でのショート・プログラムは全く精彩がなく、続いてフリーもこれでは、入賞できればいいところではないかと思ったのだ。
 しかし、驚くべきことに、彼女はフリーでは一位の得点、ショートとフリーを合わせて二位、つまり銀メダルという、およそ信じられない結果を残した。私は開いた口が塞がらなかった。
 確かに、世界フィギュアの前月に行われたバンクーバー・オリンピックで、彼女は考えられない高得点をマークして優勝した。だが、それはオリンピックという“お祭り騒ぎ”での出来事であって、より“マジメな”世界フィギュアとは別の話だと思っていた。にも拘らず、世界フィギュアで、少なくとも2回の大きなミスがあり、全体の流れも相当悪かったのに、あり得ない高得点が付けられた。私にとって完全に謎の高得点であった。

 ISUの採点については、今年、2013年世界フィギュアでも疑義が呈された。男子シングル金メダリストの P.チャン選手に対してだった。ミスが多かったのに点が高すぎる、というわけだ。
 しかし私は、P.チャンの得点にはそれほど違和感を覚えなかった。彼の点数は私の予想の範囲内であったし、実際、彼の成功した時の滑りには世界一の貫禄がある。
 私自身、時に、P.チャン選手や羽生結弦選手の得点は高すぎるかもしれないと思うことがなくはない。けれどもそれは、適切な表現ではないかもしれないが、一種の“誤差”の範囲内にとどまるものだ。
 競走や競泳なら、あるいはサッカーでさえ、スポーツの勝敗は比較的分かりやすい。しかし、フィギュア・スケートのように、ジャッジ/審判が“演技の評価”をするスポーツでは、勝敗の結果に対して万人が納得できるということは難しい。
 ある種の競技でもそういう難しさはある。先に挙げたサッカーにしても誤審があるし、また野球にも誤審がある。柔道の国際試合では誤審が多すぎて嫌になる時があるほどだ。つまり、スポーツ、競技においては勝敗、判定、得点に対して必ずしも万人が納得しているわけではない。
 ただそれでも、ほとんどの場合、人間の判断することだからミスや何らかのバイアスがあってもおかしくないと考えて、私や多くのオーディエンスは納得する。あるいは納得せざるを得ない。その事情はフィギュアも同じである。
 しかしながら、フィギュアでは、私が未だに納得できない判定がかつてなされたし、それが訂正されていないから、今後もなされるかもしれない。
 P.チャンの得点にはそんなに違和感を感じず、想像していた範囲内の得点がつけられた。が、Yu-naの場合、私の想像を遥かに超えた得点が、特に2010年以来は常に、付けられている。
 冒頭に述べたように、今のところ私が納得できない判定には、多くのスケーターのうち、ただ一人のスケーターのみが関わっているのである。

★ (2)へ続く。

NHK杯2006年12月04日

真央ちゃん(とおっちゃんの僕が呼ぶのは恥ずかしいが…)は凄いなーと、改めて思いました。彼女は伝説的天才になるのでは?と、思ったくらいです。

NHK杯では、男子、女子ともに1位〜3位まで日本人が独占するという、まあ、何ともえらいことになりました。

織田くんのフリーも素晴らしい滑りだったなあと思ったんですが、高橋くんが4回転を今シーズンで初めて成功させて、織田くんを超える滑りになりました。

日本のフィギュアスケートの層が、こんなに厚くなるとはすごいですね。冬の楽しみが増えました。♪

まだ、グランプリファイナル、日本選手権(→世界選手権)があるので、スケートシーズンを楽しめて嬉しいです。(=^ ^=)

ただ、中野選手は、どうもついていない感じがします。。。謙虚そうなので、応援したくなるんですけど。。。

って、なんか恥ずかしい日記の気もしてます。(フィギュアスケートって、女の子がキャーキャーいうイメージがあるので。。。(-_-;))

それにしても、例年、グランプリシリーズって、こんなにきちんと放送してくれてたかなー、と不思議に思っております。

柔道とか他の好きなスポーツも、見たくても夜中にやってたりして、なかなか見る機会がつかめなかったんですけど、フィギュアスケートって、こんなに見やすい時間に、テレビで放送してたかなあ〜??