(ド?)遠視、白内障のこと ― 2009年06月20日
今まで、視力で引っ掛からなかったので、眼科の検診は受けたことがなかった。
よく「ド近眼」という言葉が言われるが、僕はきつい遠視で、いわば「ド遠視」なのだそうだ。
山や海、空、つまり自然を見ている場合は余り負担がかからないが、「部屋」のものを見ているときは、常に目に負担をかけているらしい。
部屋だけでなく、都会のような遮るものが多いところでは、人はもちろんのこと、少し離れた建物なども目には負担になっているという。
よく人込みでクラクラする、いわゆる「人に酔いやすい」のは、こんなところにも原因があったようだ。
どおりで、近くのもの、たとえば文字を読んだりすると、目に疲れを感じやすい訳である。
「読む」「読解する」にはかなり集中力が必要だと普段から感じているけれども、わざわざ目を近づけて何度も同じ部分を繰り返して見るのだから、当然かもしれない。
子供の頃からの頭痛持ちも、こんなところに原因があるのかもしれない。
不思議だが、僕は近くのもの、特に文字を読むとき、意味をよく取ろうとすればするほど、相当に目を近づける癖がある。じゃあ、これは余り目にはよくないんだなぁ…。すぐ頭痛になるし(溜息)
確かに、そう言われてみて、活字を近づけてみたら、あるところまではよく読めるが、途中から全く読めなくなる! 知らなんだ。というより、それは当たり前だと思っていた。
子どもの頃、よく空を眺めていた。また、遠くにある山や建物、看板、小さく見える人々、つまり遠くで歩いている人、そして犬や猫を見るのがとても好きだった。
確かにそうするほうがストレスを覚えない。これは、目のことに限らず、精神的に皆、そんなところがあるのではないだろうか。
「検診」でなければ、すぐに検査をして眼鏡をかけることを考える、とおっしゃっていた。
僕が「近い将来……」と言いかけたら、いや、今からすぐにでも眼鏡をかけることを勧めますよ、と言われた。眼鏡をかけていてもいなくてもだが、いずれ、遠視用のレンズはどんどん分厚くなっていくから、今から薄いのをかけて目の負担を少なくしておくといい、という。
はぁ。そんなものなのか。
目のレンズ=水晶体も濁りがあるという。
え?
白内障だそうで、あらら、「アラフォー」でも白内障になるものなのか。「原発的」と聞こえたので、自分で思っていたより目だけでなく、脳神経その他も苦労をしていてくれたんだなぁ。
詳しい検査をしてから、白内障治療と眼鏡について方針を考えましょう、とのことだった。
東京に来てから、視力も落ちてきた。
目がいいのだけは自慢だと思っていたので、多少がっかりしているが、目には知らないところで大きな負担をかけていたようだ。
そろそろ、眼鏡デビューの時期みたいです。(^ ^)
続・年賀状…… ― 2009年03月22日
実はまだ出していない。。。(ーー;)
印刷はしたのだけれど、
そして、旧正月には出そうと思っていたのだけれど、、、
まだ出していないのである〜!orz(涙)
せっかく郵便局のいわゆる「年賀状」を買ったのだから、
この時期になっても送るつもりでいる。(汗)
もう、こうなったら、季節の節目節目の何かを目標にして
(残念ながら、春分は過ぎてしまったので、
例えば、お彼岸とか雀始巣、桜始開、清明とか……)
……送らせていただきたい、と考えています。。。m(_ _)m
年賀状…… ― 2009年01月04日
(旧正月に送ろうかなぁとか。。。)
挨拶が遅れました。
あけましておめでとうございます。
どうぞ今年もよろしくお願いいたします☆
最近気になったこと? ― 2008年12月31日
2)信じることについて
3)古典志向について
★
1)近くのスーパー(コープとも言う(笑))に限らず、
多くのスーパーや八百屋さんで、キャベツや白菜、大根等の葉っぱを捨てるために、
その前に専用の段ボール箱が置かれていることがよくあり、
客自身もそこへちぎって捨てていく。
ふと、もったいないなぁと思った私は、それを拾って持って帰ったのだった。
(でも、まだ二度ほどしかしていません。)
店員さんに一言断ろうと思うものの、言い出しにくく、
そのままカゴに入れていたが、レジの人も何も言わずに会計をして下さった。
特に東京では、ネギの青い部分を捨てる人がいる!
(話では聞いていたが、ホントなのでした。)
また機会があれば拾ってこよう!
……かく、うちは貧乏なのです。。。(^^;
★
2)これは、ある人にメールを送った文章からの引用である。(一部、加筆訂正してます。)
最近「信じる」という言葉に引っかかりを覚えることが多いです。
信じるという「言葉」が「よい/美しい」ものとして語られているのを
聞いたり見たりすると、違和感を時に感じます。
信じることを余りに平板に捉えすぎているのではないか、などと……。
もちろん、僕にとって「自分を信じること」は大命題なのですが、
それだけに、美辞麗句の仲間入りをしてほしくないという気持ちがあります。
「信」と「不信」、「信」と「疑」は表裏一体、という以前に、
表と表、裏と裏、それぞれ重なっていて、かつ表裏一体というくらいに
密接な関係ではないのかな、と最近は考えることが多いです。
(そんな在り方を視野に入れた上で、信じることを語ってほしいものです。)
ですので、僕が人や何かを信じるというとき、既に不信や疑が含まれていると思うのです。
「信」が美辞麗句になると、たとえば「裏切り」が「悪」の言葉になってしまいます。
普通「悪いこと」とはされていますが……。不信や疑も同様です。
けれども、そういったことを悪いこととして切り捨ててしまうには、
人間も世界も簡単ではない。「信じる」にはもっと広い意味を持たせてやってほしい。
★
3)以前、私は文学については古典の志向が強く、
音楽には新しさを求めるという話を書いた。
(それで、マイミクさんにご迷惑おかけし、お世話になりました。
同時に、自分を振り返るいい機会をいただきました。
ありがとうございます!)
しかし、最近、そうでもないとも考えるようになった。
確かに、YMOを聴いていたため、例えば最近のエレクトロニカや
ポストロックと言われるような動きは気になる。
前衛的、先鋭的な音楽もたぶん好きなのだろう。
ただ、余りうるさい(単純に音が)のは、聴かなくなってきた。
自分の聴いている音楽を思い浮かべてみると、
思ったより民族音楽やクラシックも多いみたいなのだ。
西洋のクラシックもヨーロッパ地方の民族音楽の一形態と考えれば、
けっこう伝統的で古くからある音楽も好んでいるようである。
あれ? 音楽でもまずまず古典志向が成り立ってるやんかと思ったのであった。
★
気がつけば大晦日のようです。(^^;
最近、寝込んでました。●■〓
風邪も引いておりました。
今年は風邪にやられすぎてしまいました〜。(ーー;)(笑)←大晦日、最後くらいは笑っておかないと!!
ハンマースホイ。 ― 2008年11月01日
ちょっと趣を変えて(?)絵画の話でも……。
いま上野の国立西洋美術館で、W.ハンマースホイという画家の展示をしている。
http://www.nmwa.go.jp/jp/index.html
「静かなる詩情」というサブタイトルが付けられている。
そのタイトルは、的を射たものだと思う。
ただ、もちろん絵画はその絵画の一回性でのみ語られるものである。
ハンマースホイを気に入った妻は2度目の来訪だった。
私がふと感じたのは、アンビエントミュージックである。
この静けさはどこかで感じたことがあると思ったら、
それはある種の音楽に似ているのだ。
無機的な印象とともに、不要な装飾は一切ない表象の存在、
それでいて何かあたたかみがある。
こうした絵は、いくら画家が違うと主張しても、
それを見るものにとっては、決して<思い付き>に
慣れてしまったような「手」からは生みだされない。
それは、私が好きな音楽と同じだ。
だから、アンビエントと呼ばれる音楽も同時に呼び起こされたのだろう。
(こうしたジャンルの「くくり」は、ときに説明には便利でもある。)
不可思議な空間、おそらくは画家のみの空間と人物
──その人物が特に印象的なのは、後ろ姿であることだ。
奇妙で単純な(簡単という意味ではない)配置は、
一旦は不安定なところへ自分を追いやるが、
実は、そここそが安定かもしれないとも思う。
画家の妻であるイーダがよく描かれている。
正面から人を描いた絵は少ないのだが、
虚ろな目をしたイーダの絵があって、
それを見たリルケが、ハンマースホイに会いに行った
というエピソードが紹介されていた。
虚ろな、というのはその「解説」に書いてあった言葉で、
その絵は先ずは「虚ろ」と言っても構わないものだったけれども、
これを虚ろと言ってしまってはいけないような絵でもあった。
確かに突き放しているようでありながらも、
包んでいるような絵でもあったからだ。つまり、やさしい。
デンマークと言えば、キルケゴールのいた国でもある。
北欧の気候も彼らに影響を与えていたに違いない。
無音より静かな音、という逆説的な比喩が私はとても好きである。
私が好きな音楽(アンビエントとしてくくると、本当はもったいない)
の比喩としていい言葉だと思う。
そして、この比喩は、ハンマースホイの絵にも言っていいと思った。
最近のコメント