覚書きの寄せ集め?(笑)2007年09月02日

メモ(覚書き)を徒然に……。

 最近コミュニケーション(伝えること、伝えられること)の難しさを覚える。根本的に人間は分かりあえる生物ではない、と確信的に思いながらも、分かりあえる契機もあるとも思う。時に、コミュニケーションとはそんなに大事にされるべきものかと、疑う気持ちが起こる時さえある。それは、僕の一つの堂々めぐりなのだろう。ただ、人間は共鳴することができるのだという、直感的な予感を自分は持っているようだ。

 コミュニケーションと言うと、思い出す言葉がある。学生時代に英文科の先生が、言語とは理解するためではなく誤解するためにあるようなものだ、そんな感じのことをおっしゃった。余り好きでない(寧ろ反感を抱いていた)先生だったが、この言葉は何故か強く印象しているのだ。

 伝えることから情報という言葉を連想する。どこで読んだか忘れたけれど、「情報」を「外情報」と「内情報」に区分した人がいる。前にもネットで書いたことがあったが、情報の英単語は(普通)information である。in は何か中にある感じ、form は形あるモノという感じで、形になって多くの人々がアクセス可能な何かを指す概念だ。

 この区分では、いわゆる普通に言われる情報とは、内情報のほうを指すのであって、確か、その内情報に収まらない情報を外情報 exform として分けたのだったと思う。面白い指摘だ。

 私たちは内情報である記号やモノ(目に見えないモノも含めて)を受け取っているが、実は、そうやって伝える/受け取る(内)情報は外情報があって成り立つ、という論だったと思う。それは全くその通りだろう。

 私たちは皆「時代の子」であって、それを逃れる人間は一人としていない。僕には人間が一人ひとり、そんなに異なっていないと思うときがある。例えば、一人の人間が100年前に生まれたら、100年前の時間・空間の時代の子となる。それが1000年前でも同じだろうと考えている。

 もちろん同時に、人間とは何と多種多様かと思うときがある。

 先の考え方は、歴史主義的と呼ばれるかもしれない。歴史主義からは普遍という言葉を連想する。普遍論争といわれるものがかつてあった。唯名論対実念論という形で古くは日本で紹介されていたが、この訳語は余りにも誤解を生みだし過ぎる。『岩波哲学・思想事典』(1998?)では、音声言語主義対実在論と日本語も変えて説明されていた(と思う。)訳語はともかくとして、こうした「普遍」に関する議論は、未だ続いていると思われる。

 folk psychology という言葉がある。訳語として現在では何が定着しているのか知らないが、僕(たち)は学生の頃「通俗心理学」という訳を使っていた。心理に関して個々人が持つ、一般的で常識的な理論を指してこう呼ばれる。特に検証を受けたものではなく、自らの体験と一般的で社会常識的な枠組みから成る人間心理に関する体系で、体系ではありながら非整合的であることを特徴として含めてもよい。

 多くの人がこの folk psychology を使って他者の心理を理解しようとしている。それ自体は人間が発達段階で遺伝と環境によって得ていくものだから、良いとか悪いとか言うものではない。しかし、いつまでも folk psychology を信じていると、実際の心理学とは随分異なった信念を得る可能性がある。現在学問として成立している心理学が必ず正しい(=真である)などとは、全くもって言うつもりはないが、 folk psychology だけを参照していては視野が狭くなると言うことは可能である。そして、この folk psychology は良い作用もするが、時として偏見→差別の原因となり得、もし、人権や差別に対する「感覚」を培おうとする場合があるなら、その妨げとなるだろう。

 もはや、 folk psychology といった素朴理論 folk theory だけで人間を理解するのは無理だと断言できる時代となった。

 シリーズもののテレビドラマは僕は余り見ないほうだが、最近『ライフ』というドラマを、毎回ではないが見てしまう。一つは、たまたま何かの映画を見ていたら続いて始まったから。いま一つは、新聞の広告に「ライフは現実である」というようなコピーのついた本の宣伝があったからだ。『ライフ』という原作のマンガが、イジメを扱っているということは、その時には既に知っていたと思う。

 子どもの頃、僕は総じればいじめられっ子だった。いじめやすいタイプだったのだろうか。だから、いじめについては敏感に反応する部分がある。僕のケースもまた、一つのコミュニケーションの問題として見ることができるかもしれない。僕は「言い返せない」子どもだったし、全般的に人に何かを伝えることに関して非常な困難を抱えていた子どもでもあった。

 こうした出来事によって、恐らく僕の心は「歪んでいる」だろうと思う。そして何らかのルサンチマンを持つに至っていると思う。しかし、「歪み」や「ルサンチマン」を持たない人間はいない。

 気がつけば、──つまり自分が自分であるという自我の目覚めのようなものが幼少期に訪れるが──僕はその時には既に、自分が他人より劣っているという感覚を持っていた。あるいは、持たされていた。このような感覚や意識を folk psychology が説明できるとは、到底思えない。

 いじめに関する理論の中の「いじめられる側にも責任がある」といった素朴な法則についても、 folk theory としての folk psychology で理解、説明しようとしても無理だというのが僕の見方だ。 それには、何故そういう理論が生まれるのか、またそれが支持される可能性を持っているのか、十分な根拠のある理論なのかと、更に分析や批判が必要な浅いレベルでの folk theory なのである。

 ビジネス書を開けば、そこにはメラビアンの法則とかマズローの欲求段階説、NLP理論だの、パラダイムや暗黙知、エントロピーだの、果ては人間の法則、宇宙の摂理に適っているといった、宗教的な言葉まで飛びだす。確かに、ビジネスというのは総合的で何か一つの説や理論では通用しないというのは分かるが、あちこちからつまみ食いしたような安っぽいビジネス書が溢れすぎているように思う。恐らくきちんと書かれたビジネス関連の書籍もあろうけれど、ビジネス書というだけで手を出す気などしなくなる。大体、もともとビジネス書は嫌いなのだから。

 その上「成功哲学」という、いわば形容矛盾のような言葉は既にありふれたものとなっている。成功と哲学を結びつけ、その「成功」が主に経済的成功を指すのだから、それが哲学と結びつくとは何とも不思議な発想だ。

 最近のスピリチュアルの流行が、18世紀のイギリスを源流とすると言われながら、実際はそれも含め過去の経営哲学と言われた松下やホンダやソニーの「経営哲学」と似通った印象を受けるのは面白い話である。島薗進さんが「新霊性運動」と名付けた最近のスピリチュアルの動きは、日本ではまだまだ浅い段階でしかなく、今までの日本人の行動からして殆どの人が「流行」に終わらせてしまうような気がしなくもない。但し、僕は確実に、世界的な動きとしてスピリチュアルの動きが流れていると感じてはいる。そしてそれは僕にとって希望的な流れである。





 マスコミ組織とそのコミュニケーション(情報伝達)という方向に目を向けると、最近不思議な現象が起きている。朝青龍関の問題がこれほど大きなものとなるとは思いもしなかった。何故日本でこれほどの反響を呼んでいるのか、未だに僕には分からない。そして、全般的な印象を書くならば、日本人とは何と冷たいのだろう、器が狭いのだろうというのが、僕の持つ感想のようなものだ。

 ある精神科医は「詐病」(仮病)と言い、別の精神科医は「鬱病」(の初期症状)だと言う。いずれにせよ、実際に診察していない医者の言葉なので、どちらがより事実に近いのか分からないけれど、それよりも驚くのは日本人がこれだけの関心を示してることだ。あるいは、マスコミが勝手に騒いでいるだけかもしれないが。

 日本で最もメジャーなスポーツといえば、野球と相撲だった。今はサッカーもそうだろう。僕は小さい頃、祖父が相撲を見ていると一緒に見ているのは好きだった。しかし、プロ野球がテレビから流れてくると、かなり厭な感覚を持っていたのを覚えている。一番厭だったのは各応援団の笛や太鼓の「音」だった。一時プロ野球をよく見ていた時期があったが、やはり長くは続かず特にあの「音」に辟易し始めたのだった。振り替えって、相撲もよく見ていた時期があった。千代の富士がまだ横綱になる前くらいから、千代の富士が引退して若貴時代が来るまでだった。中学~高校生の頃で、全く愚かなことに、自分はまるで「通」でもあるかのように振る舞っていた。

 朝青龍関の事の真相はどうか知らないが、ここにも何かコミュニケーションの不幸な成り行きを感じる。モンゴルで日本相撲協会への批判が起きているらしいが、実は僕も協会と横綱審議委員会への不信感は中学生の時に持ち初めていたので、その新聞記事に違和感を感じなかった。日本の若者の口の端にまで上っているのを見ると奇妙に感じる。突然「心・技・体」のような、武道としては非常に難しい理念を持ちだして議論しようとする人がいるが、「理念」の理解や実感の難しさはそれを考えたことがある人なら分かるはずだ。もちろん何より先ずは、それなりに相撲道、武道への関心が必要だと思う。

 異国の地で一人綱を張ってきた朝青龍関の、この一連の悲しい出来事は、組織/システム的な問題も大きいのではないかと思っている。朝青龍関への個人攻撃よりも大切なのは、相撲協会も含めたシステムの批判分析ではないかと思うのだ。これは朝青龍関および「外国人力士」と協会、親方衆、医者、市民、様々な人たち皆のコミュニケーション、意志疎通の機能がうまく働いていないことの、一つの証左を示していると考えている。

 モンゴル人はモンゴル語で聞き、話す。(日本人は日本語で聞き、話す。) 朝青龍関は日本人医師にも新聞記者にも(訳の分からない芸能リポーターにも?)日本語で話さなければならない。そのいわば翻訳・通訳の機能は、どれほどのコミュニケーションを担保できるだろうか。朝青龍関本人にのみ、その機能を担ってもらうとは余りに酷な話である。どう考えても角界の背景や業界用語、モンゴル語、日本語に通じた翻訳者がいることが望ましい。機能しているか分からない異国語間のコミュニケーションを、マスコミはどのように更にマスとコミュニケートしていけるのか。そのような状況で日本の人々は何をどうやって「厳格に」判断しようとするつもりなのか。

 もちろんナショナリズムの問題も頭をよぎる。何故これほどまでにヒステリックな状態が続くのか、僕には分からない。この話についてはネットにアップするつもりはなかったのだが、新聞のトップにある「目次」欄にも大きく取り上げられているのを見て、さすがに大きな問題になっているのだと改めて思った。そして、僕までこういう風潮に乗りたくないという思いよりも、ここまで問題が膨らんでいるならば僕がネットにこの話をアップすることなど小さな出来事だし、それ以上に、いい加減もう止めて欲しいと誰かに伝えたい、そんな気持ちのほうが大きくなったのである。

 朝青龍関がサッカーに興じている様子がテレビで流れたとき、僕は笑い話で終わるだろうくらいに思っていた。それが今は外交問題にまで発展するかもしれないという。いったい、日本人は何を考えてこんなに外国を巻き込む問題にする必要があったのか理解に苦しむ。より冷静になり、日本相撲協会を中心としたシステムを、先ずは分析したり見直したりすることのほうが、よほど今後のためにもなると思う。