東京都の「ホームレス地域生活移行支援事業」について ― 2007年06月02日
2年前の「ホームレス地域生活移行支援事業」という政策は、路上生活から“住宅”のある生活へ、ホームレスの方々を“移行”させるという事業でしたが、実態として、2年経ったところで“住居”から追い出そうという方向に転換(?)されたと報告されています。
「ホームレス地域生活移行支援事業」裁判が始まるところですが、その裁判を前に「明け渡し通告書」まで送られてきている始末です。
詳細は以下のサイトをご覧ください。
http://web.mac.com/soup1994_2/
『「ホームレス地域生活移行支援事業」裁判を支える会』の「緊急署名」をここですることができます。
☆ホームレスの方々を“追い出す”という形で、東京でも大阪でも、青テントやダンボールで作られた“家”が強制撤去されてきましたが、上のようなやり方は、「支援事業」と言いながら、これではだたの“排除”です。
元々、ホームレスの方の人権を考慮することもなく、住んでいる場所を“強制的に”撤去していく、その考え方自体がおかしいと思っている僕は、この「事業」がこのような形で進められているのなら、余りにひどいやり方と断ぜざるを得ません。
多少、余談かもしれませんが、、、
少し前に、「東京マラソン」がありました。(都知事選の前でしたね。)
その構想自体は悪いとは思いませんが、それがために、実は少なからぬホームレスの方の家(寝床)を撤去していくという作業が行われていました。
そこまでして行うべき行事だったのか、と疑問を覚えます。東京マラソンのニュース映像を見ながら、そのどこかで生活していた人がいて、いわゆる炊き出しがされていたんだと思うと、非常に複雑な気持ちになりました。
マラソンコースの中から或る人々は生活の場が失われ、その支援グループも、また今までと別の仕方で支援することになりました。
「東京マラソン」は、マスコミでは“明るい”話題として取り上げられていましたが、僕にとっては、どうしても明るい話題とは感じることができずにいました。。。
ナイフ ― 2007年06月05日
じつは既に自分に突き刺さっている
自分に向けたナイフは
自分を刺し貫き人をも突き刺そうとする
願わくは
太陽よ
あなたにそのナイフを向け
あるいはかざすことができたなら
それを光で融かして下さい
大地よ
あなたにナイフを突き刺すことを
あるいはそっと埋めることを
赦して下さい
そして
それができるよう私を導いて下さい
なぜなら
太陽と大地は
大きく
全てを受け入れることができると
私は知っているから
それができたなら
感謝の念を忘れないよう
私を導いて下さい
ロゴス? ― 2007年06月09日
私の欲望でないと断言することができるだろうか。
私が理念と思い込んでいるものが、
私の願望でないと断言することができるだろうか。
ロゴスに適うことを、
古今の少なからぬ賢人達は探し求め、
それと肉体的欲求を背反させてきた。
またそれ故に、古今の少なからぬ賢人達は、
その背反の根拠を問い、疑うた。
今に至っても、
ロゴスを定義することが不可能事であり、
ロゴスの何たるかを論じる事、千差万別にあるのなら、
凡夫は何をよすがとするがいい?
人の知恵は尊く、同じく愚かで、
伝統なるものは長く、同じく短い。
では、ロゴスなしとするもロゴスありとするも、
同じだろうか。
いや、それこそ愚かなることかもしれない。
凡夫が愚かになる時はその時かもしれない。
……と訳の分からないことを書きましたが(;^_^A
僕は「ぼちぼち、ゆるゆる」が一番だと思いますので、
愚かに(=あほの自分のまま)ぼちぼち行くのが
やっぱり性に合ってて、いいのやろうと思ってます。(=^ ^=)
ロゴセントリズム ― 2007年06月11日
ちょうど、前回の話の続きみたいになっていますので、載せておきます。(=^ ^=)
♪ここから〜
余りにロゴスの語法が多様なために、ロゴスについて語ることは非常に難しいですね。
超越性を持たされてきたロゴスですが、その超越性をロゴセントリズムとして、確かに、デリダは示唆に富む(富みすぎる?・笑)批判(分析)をしました。そして、ロゴスがこの超越性を一つの意味として獲得するには、それなりの歴史的経緯があったのも事実ですね。
ロゴスはギリシア語ですが、語源的には「集める」というような意味合いだったかと思います。集めて秩序立てる、その原理が超越性(という意)を獲得していったと言えるでしょう。
デリダが批判するロゴスは、この獲得された意味を持つロゴスを指し、更に私たちの発見として、このロゴス的意味が世界的にも存在していることを気付かせてくれました。つまりは、西洋中心主義だけでなく、超越性を持つ何らかの疑似体系的なレベルの理、ことわりは、東洋にも見いだすことが可能となったと考えていいと思います。
しかし、人間の考えることは人間性の問題であって、それが人間中心主義であることは、一種の宿命となります。その宿命を背負いながら、ロゴスをどう位置づけるかもまた、人間的な営為であり、その時にロゴスに意味付けするのもまた、人間の営為としか言いようがありません。
ここで論理上の矛盾を生む所以が現れるのですが、ロゴスを言語と置き換えるのか、論理と置き換えるのか、神と置き換えるのか、歴史と置き換えるのか、数と置き換えるのか、宇宙-自然と置き換えるのか、何れにせよ、それぞれが自ら何らかの壁を形作ることになるでしょう。ロゴスが形而上学である以上は。。。
基本的に、私は、それを全面的に回避する必要はないと思います。そこに言語の限界があるとするならば、言語的アプローチ以外の方法を含めて、デリダ的な脱構築も参照しつつ、生の在り方として少しずつでも変容や生成を続けることを知ることができたと考えることができるからです。もちろん、それは進歩−前へ進むことを意味していません。
……な、長すぎます。。。(^^;
僕も訳の分からないことを書いてます〜(笑)
読み返したら、変な文章もありますけど、ここはまあ、ええことにしましょう♪ また続きが書けたら面白そうかも〜?(←自分のためにですけど(;^_^A)(=^ ^=)
コトリンゴさん♪ ― 2007年06月13日
そんな時、コトリンゴさんの音楽を聴いて「!」と思った。美しくてやさしくて不思議、単純な形容だけれども、それで十分だと思う。
矢井田瞳さんや元ちとせさんにも注目していたが、UAさんが出てきた時の衝撃には及ばなかった。だから、僕にとっては、UAさん以来の女性ミュージシャンのデビューという感じがする。東京エスムジカはユニットだが(女性ボーカルという点でここにムリヤリ入れると)あと何かが僕には必要だと思われたのだった。
UAさんの曲を初めてきいたのは、実はライブだった。デビューしたばっかりで、持ち歌も少なかった。その時「!」と思ったのだった。
因みに、そのライブ(野外の大きなイベント)では、スガシカオさんもデビューの頃で「黄金の月」を歌っていた。その曲にも惚れたのだったが。(^ ^)
コトリンゴさんを初めて実際に見たのは、最近の「ロハスクラシックコンサート」でだった。今年、2007年のことだ。そのやさしい音楽にあっという間に惹かれてしまった。
この「こんにちは またあした」というシングルのあと、「にちよ待ち」というシングルが発表されている。それも期待を裏切らない美しさを持っていた。そして、6月にはフルアルバムが発売されるらしい。
コトリンゴさんは、ピアノが非常にうまく、また少しジャズのテイストがある。ジャズといえば、上原ひろみさんやアン・サリーさんも注目すべきミュージシャンだ。
デビューの頃に実際に見た女性のミュージシャンで、いいなあ!と感じた人に、アンジェラ・アキさんがいたが、しかし、その後がどうしても気になって気になって仕方がない!!という感覚までには至らなかった。
salyuさんや安藤裕子さんといった方々の音楽にも惹かれるけれども、衝撃の大きさからいうと、どうしても……ということになる。梶浦由紀さんも(彼女はヴォーカリストではないが)とても評判が良く、実際きいてみると良い曲だと思えるのだが、どうも違う、という感じがする。
コトリンゴさんは、そういう意味で、僕にとってはUAさん以来の、デビューから知っている好きなミュージシャンになりそうだ。(=^ ^=)
ただ、矢野顕子さんにけっこう似ている気がするけれども…(-_-;)
それから…もちろん、ここに挙げた皆さんの音楽、好きですよ〜♪ 木村カエラさんもいいですね!(=^ ^=)
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