輪廻転生に関する非科学的で非哲学的なメモ(1)2006年11月25日

最近、スピリチュアリズムの話を耳にすることが多い。
80年代後半に、ニューエイジやニューアカデミズム(ニューアカ)という言葉とともに、現在流行のスピリチュアリズムの原形が形作られたようにも思う。

※実際には、ニューエイジやニューアカは、80年代初期には既に語られていたと記憶しているが、シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』が大きなインパクトをもって日本に紹介されたのは、80年代後半だったと思う。

また、現在語られるスピリチュアリズムは、既成宗教、組織宗教、民間信仰とも当然ながら無関係ではなく、そういった宗教性も取り入れた形で進展しているようだ。

ところで、輪廻転生があるのか、ないのか、それは分からない。先ず、輪廻転生の一つの(あくまで一つの)解釈を、これから少し書いてみようと思う。ただ、私自身は、輪廻転生はにわかに信じられない。

輪廻転生を受け入れると、一つの回答を、曖昧ではあるにしても、見ることができる。そこには、人生の無意味さや無価値性を解消する考え方がある。
つまり、生には意味がある、無駄でない、死にももちろん意味がある。

それは、今生もまた、輪廻という巡り巡る魂のプロセスの中に位置づけられるからだ。その魂のプロセスは、神と呼んでもいいし別の呼び方でもいい、大いなる何かとの結びつきが示される。

ここで、少し現実的な方向へ話を持っていこう。私が生きているのは確かだし、私は今ここに存在しているのも事実である。
そこから眺められる、人間的な善も悪も超えた大いなる何か、よりニュートラルな表現をすれば、善悪の彼岸は、やはり、眺めることしかできない。あちら側の岸にあって、こちらの岸に立っている人間は渡ることができないのだ。

眺められるなら感じることはできるのではないか、と考えられるかもしれない。そう、その可能性はある。しかし、私は人間であり、生物である。あくまで人間的な枠を生きているのだ。その枠の中での可能性である。その枠がとてつもなく広く、確固としたものでなくとも。

さて、善悪の彼岸という言葉は、今回の“メモ”では、とても大切である。善悪の彼岸という観念は、無や道の思想と似ている。
この思想では、善も悪もないので、神的な裁きのようなイメージはない。もちろん、人間的な価値/意味などはない。

老子は言う。名付けたり形を与えたりすると、道は道でなくなる(だから、道と仮に呼んでいるだけである)。

私が今のところ、輪廻転生があると前提して、最も腑に落ちる解釈はこれである。つまり、魂が生まれ変わる先は、無であり善悪の彼岸であり、人間的な観念と無関係である。

人間は、意味付けすることを覚えた生き物である。道や、無にさえ意味を与えようとする。そして、複雑な有機的な体系を持つに至る。
様々な宗教、宗教的表象は、実は複雑な意味を含んだ、時に確とした、時に緩やかな体系である。(そこには、スピリチュアリズムを生きたい者を拒む事柄も含まれている。)

現在よく耳にするピリチュアリズムを謳う思想のうち、少なからぬものは、私が腑に落ちると書いた方向へは向かわない気がしている。
もちろん向かう必然性はないのだけれども、私が考えるスピリチュアリズムとは方向が違っており、私は、それをスピリチュアルと呼ぶことに対して、抵抗を感じる時があるのだ。
※この段落は、「輪廻転生」のテーマから外れ過ぎてしまいました。。。m(_ _;)m

カルマを背負い、それを転生した人生で返していくというのも、確かに一つの考え方であり、ある時には非常に有効だと思う。しかし、その先は?
私にとっては、段階や次元を上がっていくとか、成長、進化するというより、善悪の彼岸ヘの道を辿ることを夢想するのが、精一杯だ。

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