政治の貧困/多田富雄さんの言葉から2008年04月01日

どうしても最近の日本の動きには失望を感じることが多い。
私はといえば、最近バタバタしているので、
色々とブログに書きたいことがあるのだが、
なかなかこちらに時間を割くだけの余裕(能力?)がない。

しかし、、、
具体的に多くの事例を挙げていらっしゃる訳ではないが、
私が昨今感じている感覚と重なる文章に出会えたので紹介したい。
読売新聞(大阪版?)からの引用で、筆者は多田富雄さんである。

http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/kp80311a.htm?from=ichioshi

「多田富雄の落葉隻語 現代の「姨捨」を憂える」
というタイトルで書かれているこの文章は、
じっくり考えるに値する問題の方向を示している。
新聞というのは、突然リンクが切れたりするので、
後で、あえて全文を転載させていただく。
著作権についても、「新聞」という性質上、許される範囲だと思う。

多田富雄さんといえば、免疫学の世界的権威で、
恐らくバイオ系の科学が好きな人なら知らない人はいないだろう。
また、一般の本好きの人にとっても、
代表作が『免疫の意味論』なのだから、知らない人はいないと思う。

「能」を自作するほどの人でもある、超・多才な多田さんは、
ご高齢ながら筆はまだまだ活発である。
このような科学者がいることは誇りである。
バイオ系の研究者、科学者として養老孟司さんが、
最近では有名だけれども、私は多田さんのほうが好きである。

大学生の頃は養老さんに興味を抱いていたのだが、
それはやはり「唯脳論」という視点の提出によるものだった。
「脳化」という概念は、今でも有効なものだと思っている。

茂木健一郎さんに至っては、
今頃「クオリア」がどうとかおっしゃっているが、
私の学生時代には既に科学と哲学の議論にあがっていた有名な仮説の一つで、
それは今からもう20年近く前の話になる。

「分析哲学」の系統を中心に「クオリア」仮説については
議論も落ち着いていて、今ではもう、場合によっては、
既成の立場を示すものとしてさらりと流されることさえあるくらいだ。

もう一つ、ついでで申し訳ないが、森毅さんという数学者がいらっしゃる。
数学者として、最近有名なのは、なんといっても藤原正彦さんだろう。
しかし、私は森さんのほうが好きである。
森さんの著作は「いいかげん」がキーワードである。

藤原さんが、国語を大切に、とおっしゃっていたのは知っているし、
その主張についてのエッセイも拝読したことがある。
そのころ私は、何とも好いことをおっしゃる、なるほどと感心していたが、
何とかの「品格」とか言い出された頃には、もううんざりしていた。

「バタバタ」などと書きながら
長く余計なことを書いてしまいました。。。(汗)

ついでなので、新聞へのリンクとして、これも付け加えておきます。
朝日新聞へのリンクで、これは私も紙媒体の紙面で読みました。
一面に掲載されていたと思います。

「後期高齢者医療制度」にも触れています。
「恐ろしさ」さえ感じるこの制度の「ネーミング」一つ取っても、
今の日本の官僚や政治家が、いかに国民、いえ、私の感覚とかけ離れているかを、
象徴していると言っていいと思います。

「年金減り、必需品は一斉値上げ 4月から暮らし直撃」
というタイトルで、リンクは↓
http://www.asahi.com/life/update/0329/TKY200803290243.html
です。

それでは以下!「読売新聞」からの転載です。

 ★  ★  ★

「多田富雄の落葉隻語 現代の「姨捨」を憂える」

 わが心 慰めかねつ 更科や
 姨捨山に 照る月を見て

 ひとり山に捨てられた老女が、皓々(こうこう)と照る月光の下で悲しみの舞を舞う能の名曲「姨捨(おばすて)」。同じく深沢七郎の小説「楢山節考」では、捨てられたおりんばあさんの悲劇が涙を誘った。「姨捨」には、中世農民の貧困という背景があった。そんな世には二度としたくないと誰もが思う。しかし今、国の政策としての「姨捨」が平然と行われている。

 明治以来昭和に至る日本は、富国強兵によって国の近代化に成功したが、民意を無視して侵略戦争に突入し、敗戦の苦難を国民に強いた。これを作家小田実は「棄民」と呼んだ。

 戦後の昭和は、捨てられた国民が決起して、民主、平和、平等など、人権を回復した歴史、つまり棄民が復権した時代であった。憲法にも国民の「生存権」が明記された。

 それがまたまた危うい事態になっている。国民はまた捨てられようとしている。

 「棄民」は、誰もが気付くように始められるものではない。気付かぬうちに、弱いものから捨てられてゆく。気付いたときはもう遅い。だからどんな微(かす)かな棄民の動きでも敏感に察知して食い止めなければならない。その初期の徴候と思われる事が最近頻発している。

 リハビリの日数制限はその好例である。リハビリなんてと見過ごしてはならない。こんなところから、棄民が始まっているのだ。

 私は脳梗塞(こうそく)の後遺症で、右半身の完全な麻痺(まひ)と言語障害となり、車椅子(いす)生活を余儀なくされている。私のような重い障害を負った患者は、残っている機能を維持するため、リハビリを欠かすことはできない。中止すれば、寝たきりになる。リハビリがそれを防ぐのだ。

 そのリハビリが、一昨年から日数で制限されてしまった。制限日数を越えた者は、介護保険で老人ホームのデイケアに行けというが、専門のスタッフもいないところで、リハビリなんかできない。その証拠に、いうことを聞いて介護保険に移った患者の七割以上が、リハビリを諦(あきら)めてしまった。

 診療の報酬を決めるのは厚労省の権限だが、診療の制限までする権限はないはずだ。治らないからやめろというのは、死ねということに他ならない。残された機能を維持するのは大切な治療だ。やめてしまえというのは、糖尿病のインシュリン投与を中止しろというような乱暴なやり方ではないか。

 治療を拒否された患者は、「リハビリ難民」と呼ばれた。しかし度重なる請願に関わらず、救いの手は差し伸べられなかった。「難民」は一転して「棄民」になってしまった。現代の「姨捨」に他ならない。

 こういう事態を憂慮して、私は「診療報酬を考える会」の仲間と一緒に、二ヶ月間に四十八万人あまりのリハビリ制限反対署名を集めた。私は車椅子を押してもらって、支援者とともに、厚労省に署名簿を手渡した。

 しかし国は、血の滲(にじ)むようにして集めた四十八万人の署名を握りつぶし、かえって再改定をして締め付けを強化した。その結果患者は二度捨てられたことになる。

 療養病床の削減も「棄民」のいい例である。帰るところがない悲しい事情のある患者に、無理に退院を迫る。昔の結核病棟だって、最後まで患者を看取(みと)ったのに。「障害者自立支援法」も、残酷な「棄民法」である。この四月から始まる後期高齢者医療制度も、老人を現行の健康保険から切り離し、医療を制限し、負担を強いる典型的「姨捨政策」である。

 まず力の弱い、回復の見込めない障害者、老人、患者が捨てられた。治らない患者を治療するのは無駄だから、死ねという乱暴なやり方だ。「姨捨」とどこが違うのだろう。

 国が崩壊すると難民が出る。同じく国の行政が破綻(はたん)すると、同じく難民が出る。「医療難民」である。それが「棄民」まで作り出せば、逆に国を崩壊させるだろう。まさに「わが心、慰めかねつ」である。
(免疫学者)
(2008年03月12日 読売新聞)

ブラックウオーター事件2007年10月16日

アメリカの今イラクでしていることは、実に恐ろしいことだと感じる事件であり、その一端が知れる。
そして、それに日本が加担している訳だから私の責任もあると思うと落ち込んでしまう…。

これに関する日経のサイトへのリンクです↓
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20071002AT2M0201C02102007.html

「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」2007年09月06日

柏崎刈羽原発の事故については、周知の通りですが、ネット上で同原発の休止を求める署名活動が行われているのを知りました。

「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」
https://www.sitesakamoto.com/unplug_kariwa/index.php

詳細は↑のサイトをご覧いただければ。。。
既にご存知の方も多いかもしれませんが、まだご存知ではなく、かつ賛同される方、またご関心のある方は、一度覗いてみても損はないかと思います。

短い日記、、、でした。(=^ ^=)

覚書きの寄せ集め?(笑)2007年09月02日

メモ(覚書き)を徒然に……。

 最近コミュニケーション(伝えること、伝えられること)の難しさを覚える。根本的に人間は分かりあえる生物ではない、と確信的に思いながらも、分かりあえる契機もあるとも思う。時に、コミュニケーションとはそんなに大事にされるべきものかと、疑う気持ちが起こる時さえある。それは、僕の一つの堂々めぐりなのだろう。ただ、人間は共鳴することができるのだという、直感的な予感を自分は持っているようだ。

 コミュニケーションと言うと、思い出す言葉がある。学生時代に英文科の先生が、言語とは理解するためではなく誤解するためにあるようなものだ、そんな感じのことをおっしゃった。余り好きでない(寧ろ反感を抱いていた)先生だったが、この言葉は何故か強く印象しているのだ。

 伝えることから情報という言葉を連想する。どこで読んだか忘れたけれど、「情報」を「外情報」と「内情報」に区分した人がいる。前にもネットで書いたことがあったが、情報の英単語は(普通)information である。in は何か中にある感じ、form は形あるモノという感じで、形になって多くの人々がアクセス可能な何かを指す概念だ。

 この区分では、いわゆる普通に言われる情報とは、内情報のほうを指すのであって、確か、その内情報に収まらない情報を外情報 exform として分けたのだったと思う。面白い指摘だ。

 私たちは内情報である記号やモノ(目に見えないモノも含めて)を受け取っているが、実は、そうやって伝える/受け取る(内)情報は外情報があって成り立つ、という論だったと思う。それは全くその通りだろう。

 私たちは皆「時代の子」であって、それを逃れる人間は一人としていない。僕には人間が一人ひとり、そんなに異なっていないと思うときがある。例えば、一人の人間が100年前に生まれたら、100年前の時間・空間の時代の子となる。それが1000年前でも同じだろうと考えている。

 もちろん同時に、人間とは何と多種多様かと思うときがある。

 先の考え方は、歴史主義的と呼ばれるかもしれない。歴史主義からは普遍という言葉を連想する。普遍論争といわれるものがかつてあった。唯名論対実念論という形で古くは日本で紹介されていたが、この訳語は余りにも誤解を生みだし過ぎる。『岩波哲学・思想事典』(1998?)では、音声言語主義対実在論と日本語も変えて説明されていた(と思う。)訳語はともかくとして、こうした「普遍」に関する議論は、未だ続いていると思われる。

 folk psychology という言葉がある。訳語として現在では何が定着しているのか知らないが、僕(たち)は学生の頃「通俗心理学」という訳を使っていた。心理に関して個々人が持つ、一般的で常識的な理論を指してこう呼ばれる。特に検証を受けたものではなく、自らの体験と一般的で社会常識的な枠組みから成る人間心理に関する体系で、体系ではありながら非整合的であることを特徴として含めてもよい。

 多くの人がこの folk psychology を使って他者の心理を理解しようとしている。それ自体は人間が発達段階で遺伝と環境によって得ていくものだから、良いとか悪いとか言うものではない。しかし、いつまでも folk psychology を信じていると、実際の心理学とは随分異なった信念を得る可能性がある。現在学問として成立している心理学が必ず正しい(=真である)などとは、全くもって言うつもりはないが、 folk psychology だけを参照していては視野が狭くなると言うことは可能である。そして、この folk psychology は良い作用もするが、時として偏見→差別の原因となり得、もし、人権や差別に対する「感覚」を培おうとする場合があるなら、その妨げとなるだろう。

 もはや、 folk psychology といった素朴理論 folk theory だけで人間を理解するのは無理だと断言できる時代となった。

 シリーズもののテレビドラマは僕は余り見ないほうだが、最近『ライフ』というドラマを、毎回ではないが見てしまう。一つは、たまたま何かの映画を見ていたら続いて始まったから。いま一つは、新聞の広告に「ライフは現実である」というようなコピーのついた本の宣伝があったからだ。『ライフ』という原作のマンガが、イジメを扱っているということは、その時には既に知っていたと思う。

 子どもの頃、僕は総じればいじめられっ子だった。いじめやすいタイプだったのだろうか。だから、いじめについては敏感に反応する部分がある。僕のケースもまた、一つのコミュニケーションの問題として見ることができるかもしれない。僕は「言い返せない」子どもだったし、全般的に人に何かを伝えることに関して非常な困難を抱えていた子どもでもあった。

 こうした出来事によって、恐らく僕の心は「歪んでいる」だろうと思う。そして何らかのルサンチマンを持つに至っていると思う。しかし、「歪み」や「ルサンチマン」を持たない人間はいない。

 気がつけば、──つまり自分が自分であるという自我の目覚めのようなものが幼少期に訪れるが──僕はその時には既に、自分が他人より劣っているという感覚を持っていた。あるいは、持たされていた。このような感覚や意識を folk psychology が説明できるとは、到底思えない。

 いじめに関する理論の中の「いじめられる側にも責任がある」といった素朴な法則についても、 folk theory としての folk psychology で理解、説明しようとしても無理だというのが僕の見方だ。 それには、何故そういう理論が生まれるのか、またそれが支持される可能性を持っているのか、十分な根拠のある理論なのかと、更に分析や批判が必要な浅いレベルでの folk theory なのである。

 ビジネス書を開けば、そこにはメラビアンの法則とかマズローの欲求段階説、NLP理論だの、パラダイムや暗黙知、エントロピーだの、果ては人間の法則、宇宙の摂理に適っているといった、宗教的な言葉まで飛びだす。確かに、ビジネスというのは総合的で何か一つの説や理論では通用しないというのは分かるが、あちこちからつまみ食いしたような安っぽいビジネス書が溢れすぎているように思う。恐らくきちんと書かれたビジネス関連の書籍もあろうけれど、ビジネス書というだけで手を出す気などしなくなる。大体、もともとビジネス書は嫌いなのだから。

 その上「成功哲学」という、いわば形容矛盾のような言葉は既にありふれたものとなっている。成功と哲学を結びつけ、その「成功」が主に経済的成功を指すのだから、それが哲学と結びつくとは何とも不思議な発想だ。

 最近のスピリチュアルの流行が、18世紀のイギリスを源流とすると言われながら、実際はそれも含め過去の経営哲学と言われた松下やホンダやソニーの「経営哲学」と似通った印象を受けるのは面白い話である。島薗進さんが「新霊性運動」と名付けた最近のスピリチュアルの動きは、日本ではまだまだ浅い段階でしかなく、今までの日本人の行動からして殆どの人が「流行」に終わらせてしまうような気がしなくもない。但し、僕は確実に、世界的な動きとしてスピリチュアルの動きが流れていると感じてはいる。そしてそれは僕にとって希望的な流れである。





 マスコミ組織とそのコミュニケーション(情報伝達)という方向に目を向けると、最近不思議な現象が起きている。朝青龍関の問題がこれほど大きなものとなるとは思いもしなかった。何故日本でこれほどの反響を呼んでいるのか、未だに僕には分からない。そして、全般的な印象を書くならば、日本人とは何と冷たいのだろう、器が狭いのだろうというのが、僕の持つ感想のようなものだ。

 ある精神科医は「詐病」(仮病)と言い、別の精神科医は「鬱病」(の初期症状)だと言う。いずれにせよ、実際に診察していない医者の言葉なので、どちらがより事実に近いのか分からないけれど、それよりも驚くのは日本人がこれだけの関心を示してることだ。あるいは、マスコミが勝手に騒いでいるだけかもしれないが。

 日本で最もメジャーなスポーツといえば、野球と相撲だった。今はサッカーもそうだろう。僕は小さい頃、祖父が相撲を見ていると一緒に見ているのは好きだった。しかし、プロ野球がテレビから流れてくると、かなり厭な感覚を持っていたのを覚えている。一番厭だったのは各応援団の笛や太鼓の「音」だった。一時プロ野球をよく見ていた時期があったが、やはり長くは続かず特にあの「音」に辟易し始めたのだった。振り替えって、相撲もよく見ていた時期があった。千代の富士がまだ横綱になる前くらいから、千代の富士が引退して若貴時代が来るまでだった。中学~高校生の頃で、全く愚かなことに、自分はまるで「通」でもあるかのように振る舞っていた。

 朝青龍関の事の真相はどうか知らないが、ここにも何かコミュニケーションの不幸な成り行きを感じる。モンゴルで日本相撲協会への批判が起きているらしいが、実は僕も協会と横綱審議委員会への不信感は中学生の時に持ち初めていたので、その新聞記事に違和感を感じなかった。日本の若者の口の端にまで上っているのを見ると奇妙に感じる。突然「心・技・体」のような、武道としては非常に難しい理念を持ちだして議論しようとする人がいるが、「理念」の理解や実感の難しさはそれを考えたことがある人なら分かるはずだ。もちろん何より先ずは、それなりに相撲道、武道への関心が必要だと思う。

 異国の地で一人綱を張ってきた朝青龍関の、この一連の悲しい出来事は、組織/システム的な問題も大きいのではないかと思っている。朝青龍関への個人攻撃よりも大切なのは、相撲協会も含めたシステムの批判分析ではないかと思うのだ。これは朝青龍関および「外国人力士」と協会、親方衆、医者、市民、様々な人たち皆のコミュニケーション、意志疎通の機能がうまく働いていないことの、一つの証左を示していると考えている。

 モンゴル人はモンゴル語で聞き、話す。(日本人は日本語で聞き、話す。) 朝青龍関は日本人医師にも新聞記者にも(訳の分からない芸能リポーターにも?)日本語で話さなければならない。そのいわば翻訳・通訳の機能は、どれほどのコミュニケーションを担保できるだろうか。朝青龍関本人にのみ、その機能を担ってもらうとは余りに酷な話である。どう考えても角界の背景や業界用語、モンゴル語、日本語に通じた翻訳者がいることが望ましい。機能しているか分からない異国語間のコミュニケーションを、マスコミはどのように更にマスとコミュニケートしていけるのか。そのような状況で日本の人々は何をどうやって「厳格に」判断しようとするつもりなのか。

 もちろんナショナリズムの問題も頭をよぎる。何故これほどまでにヒステリックな状態が続くのか、僕には分からない。この話についてはネットにアップするつもりはなかったのだが、新聞のトップにある「目次」欄にも大きく取り上げられているのを見て、さすがに大きな問題になっているのだと改めて思った。そして、僕までこういう風潮に乗りたくないという思いよりも、ここまで問題が膨らんでいるならば僕がネットにこの話をアップすることなど小さな出来事だし、それ以上に、いい加減もう止めて欲しいと誰かに伝えたい、そんな気持ちのほうが大きくなったのである。

 朝青龍関がサッカーに興じている様子がテレビで流れたとき、僕は笑い話で終わるだろうくらいに思っていた。それが今は外交問題にまで発展するかもしれないという。いったい、日本人は何を考えてこんなに外国を巻き込む問題にする必要があったのか理解に苦しむ。より冷静になり、日本相撲協会を中心としたシステムを、先ずは分析したり見直したりすることのほうが、よほど今後のためにもなると思う。

餓死とは……2007年07月14日

豊かな日本というけれど。。。
北九州市は一体どうなっているんでしょう??

ネット上の新聞へのリンクです。

朝日新聞
http://www.asahi.com/national/update/0711/SEB200707110049.html

読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070711i416.htm?from=main4

読売新聞九州版
http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/040/040_070712.htm

毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/seibu/shakai/news/20070712ddp041040017000c.html

西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20070712/20070712_015.shtml


どう考えても北九州市の説明はおかしい。
この記事を読んで心の中がギュッとしたので、あえて“挑戦的な”書き方をすると、北九州市の行政職員によって、少なくともこの3年で、3人の“殺人”が行われました。

☆朝日新聞では……

小倉北区役所の常藤秀輝・保護1課長は「辞退届は本人が自発的に出したもの。男性は生活保護制度を活用して再出発したモデルケースで、対応に問題はなかったが、亡くなったことは非常に残念」と話している。

☆読売新聞では……

同市の三崎利彦・保護課長は「対応は適切。亡くなったのは残念だが、保護を打ち切った後のことで、市の保護行政とは直接関係はない」としている。

☆読売新聞九州版では……

 会見した菊本誓・同区参事は「保護開始から打ち切りまでの流れはモデルケースと言えるほど適切だった」と説明。三崎利彦・市保護課長は「担当職員は威圧的な態度を取っておらず、男性も反発しなかった」とした上で、「打ち切り時も『困ったことがあったらまた来てほしい』と呼びかけた。今回の死亡は生活保護行政と関係ない」と、市側の責任を全面否定した。

☆毎日新聞では……

市によると、主治医が2月末に「就労に問題はない」と診断した。三崎利彦・市保護課長は「働けるのであれば就労を指導するのは当然。無理強いはしておらず誤った措置はなかった。『困ったことがあれば来訪を』と伝えていたので、日記の記述は意外だった」と話した。

☆西日本新聞では……

市は「男性が働けると判断した。生活保護の廃止は適切だった。廃止後のことは把握していない」と話している。

……といった無責任な言葉が並んでいる。
まるで他人事である。いや、彼らにとっては実際に他人事なのかもしれない。自分たちは生活保護にかかることはないと信じているだろうし、今、大きすぎる程に問題になっている“年金問題”にしても、(公務員の)共済年金については保護されてきたし、これからも保護しようとするだろう。
ミート社の問題は確かに恐ろしい問題だが、語弊を恐れずに書くと、これまで社会保険庁がしてきたことに比べれば、小さく感じるほどだ。ねんきん機構か何かにするというけれども、職員は“同じ”である。(因みに、給与は上がり、立場は公務員と同等の扱いである。)
納付年金をそのまま使い込んだ者もいるという。それだけでも、民間企業なら、馘首されるのは当然で、刑事事件と民事事件に発展してもおかしくない。

話がそれてしまいました。。。m(_ _;)m
人ひとりが自分たちの責任で“死”に至ったというのに、まるで何も“感じていない”かのような言葉たち。。。
北九州市(福祉課)のホームページを見てみたら分かるだろう。昨年の殺人事件……いえ、餓死事件について、特別の反省をするような内容ではない。

このような理不尽な話は、実は、探せば沢山たくさん出てくる。
今回はこの一件を取り上げたけれども、日本の福祉政策は“誰のため”かが全く理解できない。そう思えてくる。
(その文脈で書けば、年金も一体“誰のため”の制度なのか?)

責任者も見えてこない。官僚・公務員システムは複雑に作られている。
少なくとも、北九州市長は責任者である。

最後に、北九州市長・北橋健治氏への市長直通メールというのがあるので、それにリンクしておきます。
https://www.city.kitakyushu.jp/page/form/form-e-6.html

また、北九州市役所の所在等も記しておきます。
この秘書室というのが、市長への直通と同じように扱われているようです。

〒803-8501 福岡県北九州市小倉北区城内1番1号
北九州市市長秘書室
電話:093-582-2127
FAX:093-562-0710
hisho@mail2.city.kitakyushu.jp

北九州市のサイト(www.city.kitakyushu.jp)からフォームを使えば、
・北九州市総務市民局市民部広聴課
・北九州市小倉北福祉事務所長・菊本誓氏
・北九州市小倉北福祉事務所保護第一課長・常藤秀輝氏
各宛先に文章が送れるようです。

※近く、抗議文を送りたいと考えています。。。