ISU の余りに深い罪 (1) ― 2013年08月25日
私が疑問を感じ始めたのは、2009-2010のグランプリ・シリーズからだ。決定的におかしいと思ったのは、2010年、トリノの世界フィギュアである。
明らかに、世界フィギュアでのYu-naの出来はひどかった。フリー・プログラムの演技を見て、ひょっとして彼女は表彰台を逃すかもしれないと私は思った。というより、この大会でのショート・プログラムは全く精彩がなく、続いてフリーもこれでは、入賞できればいいところではないかと思ったのだ。
しかし、驚くべきことに、彼女はフリーでは一位の得点、ショートとフリーを合わせて二位、つまり銀メダルという、およそ信じられない結果を残した。私は開いた口が塞がらなかった。
確かに、世界フィギュアの前月に行われたバンクーバー・オリンピックで、彼女は考えられない高得点をマークして優勝した。だが、それはオリンピックという“お祭り騒ぎ”での出来事であって、より“マジメな”世界フィギュアとは別の話だと思っていた。にも拘らず、世界フィギュアで、少なくとも2回の大きなミスがあり、全体の流れも相当悪かったのに、あり得ない高得点が付けられた。私にとって完全に謎の高得点であった。
ISUの採点については、今年、2013年世界フィギュアでも疑義が呈された。男子シングル金メダリストの P.チャン選手に対してだった。ミスが多かったのに点が高すぎる、というわけだ。
しかし私は、P.チャンの得点にはそれほど違和感を覚えなかった。彼の点数は私の予想の範囲内であったし、実際、彼の成功した時の滑りには世界一の貫禄がある。
私自身、時に、P.チャン選手や羽生結弦選手の得点は高すぎるかもしれないと思うことがなくはない。けれどもそれは、適切な表現ではないかもしれないが、一種の“誤差”の範囲内にとどまるものだ。
競走や競泳なら、あるいはサッカーでさえ、スポーツの勝敗は比較的分かりやすい。しかし、フィギュア・スケートのように、ジャッジ/審判が“演技の評価”をするスポーツでは、勝敗の結果に対して万人が納得できるということは難しい。
ある種の競技でもそういう難しさはある。先に挙げたサッカーにしても誤審があるし、また野球にも誤審がある。柔道の国際試合では誤審が多すぎて嫌になる時があるほどだ。つまり、スポーツ、競技においては勝敗、判定、得点に対して必ずしも万人が納得しているわけではない。
ただそれでも、ほとんどの場合、人間の判断することだからミスや何らかのバイアスがあってもおかしくないと考えて、私や多くのオーディエンスは納得する。あるいは納得せざるを得ない。その事情はフィギュアも同じである。
しかしながら、フィギュアでは、私が未だに納得できない判定がかつてなされたし、それが訂正されていないから、今後もなされるかもしれない。
P.チャンの得点にはそんなに違和感を感じず、想像していた範囲内の得点がつけられた。が、Yu-naの場合、私の想像を遥かに超えた得点が、特に2010年以来は常に、付けられている。
冒頭に述べたように、今のところ私が納得できない判定には、多くのスケーターのうち、ただ一人のスケーターのみが関わっているのである。
★ (2)へ続く。
ISUの余りに深い罪(2) ― 2013年08月26日
では、何故おかしいのかを当然ながら問うことになるが、残念ながら、私にはそれを検討するだけのデータがない。よって、ここでは採点に疑念を抱かせるようなジャッジング・システムを変更すべきだと主張する。
疑念を抱かせないためには、何といっても判定の透明性を確保するのが一番である。民主主義の基本的な約束事でもある。先ずは、匿名をやめてジャッジの名前または国籍を公開すべきだ。これだけでも相当の透明性を確保できる可能性がある。
現行のような“ジャッジされる”側に圧倒的に不利なシステムは、フィギュアスケートの発展を妨げている。ジャッジ、審判がこんなにも保護される理由を、私は思い付くことができない。反対に競技者、スケーターは保護されていない。
だから、先ずジャッジ(の名前または国籍)を公開制にして、それから次に、ルールの改正と監視システムの強化を図るのがよいだろう。
ルールについては、現在でもそれほど悪いわけではない。(しかし、旧方式、6.0システムに比べて良いとも言きれない。)順次の改正と良心的な運用が行われればよいと思う。監視システムは今でも存在しているが、ほとんど機能していないように見える。もっと権威を与えて、判定に反映させるように変更したほうがよい。
さて、以上だけの変更でもかなりの改善が期待できるのではないか。特にジャッジの非匿名方式、公開制はきょう明日にでも決定していいだろう。早すぎるということはない。
ISUの現在のルール(新採点システム/CoP)は、もともと2002年ソルトレイクシティ・オリンピックでの不正疑惑があったから作られたものである(ことになっている)。それより前、80年代や90年代にもスキャンダルはあった。その中には、JSF(日本スケート連盟)が関わったものもある。
確かに新採点システムは画期的であった。私が伊藤みどりさんを見てフィギュアスケートを好きになってから、このような“数字に溢れた”採点方式が誕生するとは思ってもいなかったし、慣れるのに苦労した。
では、旧方式に比べて新システムはそんなに良いものなのだろうか。これに対する答えは難しい。良くなった部分もあれば、悪くなった部分もあると言うべきだろう。
悪くなったとよく言われるのは、総合的な判断がなされにくくなったという点だ。以前のほうが、技術と芸術が、テクニカルとアーティスティックな面が見事に融合されていたという、強い感覚である。これはそうかもしれない。しかしだからといって、旧方式の中に、感性に訴えかける傾向が強くなる潜在性があるのも否めず、それは余り好ましくない。また、採点が分かりづらくなったともよく言われる。私自身、新システムをいまだに理解できていない。
そうかといって、新システムのほうが合理的だからよい、と主張するのは間違っている。実際、新システムは合理的というより、主観的という形容のほうが似合っている。新システムの難しさの原因も、必ずしも論理的、合理的になったからというわけではない。基本的に、“足し算をする”というルールになったのだから、数字を足していけば何となく“総合点”にたどり着く。
ちなみに、合理的=理性的という概念は総合的という意味合いも強く、感性的/合理的という対立で考えることが間違っていることも付け加えておこう。
★(3)へ続く。
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