現代短歌の謎?2008年08月11日

以下、ミクシ内である経緯があって書いた文章です。
そのため、流れが多少不自然ですが、せっかくですので、ここに転載して残しておこうと思います。

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旧仮名遣いは、現代語の国語辞典でも併記されている場合が多いですので、何とかなることはなりますが、その表記が何に準じているのか、時々分からないことがありますね。(ーー;)
藤原定家が(ていかだけに)一度、定式化しましたけど、では、それまでの仮名遣いがおかしいのかというと、そういう訳でもありませんし、特に私は『万葉集』が好みですので、そうなると、読み方さえ幾つかの解釈が生じるという、ややこしさで……。たぶん、一番表現に相応しい仮名遣いをすればいいのでしょうが。。。

私は「万葉」に憧れを感じるのですが、確か「アララギ派」は万葉に拘りすぎたために行き詰まったというのですから、万葉回帰であればよい訳ではないことも、その意味でですが、証明されたようなものですね。。。

古文体が三十一字に合うというのは実感できるのですが、それが故に、現語体の「短歌」が、私にとっては非常に分かりづらいものになっているようです。
例えば、三十一を「みそひと」と読んで、歌に詠み込むことがありますね。「みそひと」と読み得ること自体が、歌の強みや良さ、そこから来る美しさであると感じると共に、現代語と古語とが、そんなに連続しているのだろうかと疑問にも思うのです。

そこまで考えを及ばせて作られた歌は、古語が生きているような気もするのですが、今では大抵、現代日本語を使えない人がいないので、現代口語体の短歌が沢山出てきて、それはまるで「センスで勝負」みたいな印象を受けてしまうのも、私にとっては事実なのです。
そうすると、口語散文詩の方がよほど表現手段としては適していると思うのですが、それでも「歌」でなければならない人もいるのでしょう、ホントに沢山の歌集が世に出ています。

外国の詩でも、例えばソネットや韻律のように、形があってこそ成り立ち得ると言うことができ、それと同じように、現代語調でも形があって成り立ち得る何か、があるのかもしれません。

近代短歌が「長歌」から全く独立して成立した頃、それでも長歌は完全に無視し捨てられた訳ではなかったように思います。(それは俳諧の成立の時にも同じことが言えると思います。)
また、古典文学では、散文の中に巧みに歌を入れることで、歌も生きるし散文の部分も生きてくるように思えました。

現代短歌になると、ここが私にとっての一番の疑問だと先日気付いた訳ですが、そうした「歌」の周りを巡ってくれる何かはなくてよいのだ、という印象の歌が増え続けてきているように思えて、それなら三十一の形式は何の意味を持って、ここに存在しているのだろうと、ふと考えざるを得なくなったようです。

ところで、私はよく、歌や詩に限らず絵や映画等も、音楽と対照させて考える癖があるようです。そこで、非常に面白い(実は、ちょっとぎくっとした(^^;)指摘をいただいたことがあります。
「君(ピロー=中島)は、音楽に関しては伝統より新しさを求めて、文学に関しては古典や伝統を重んじていることになる。反対のことをそれぞれに要求している」と言われました。

確かに私は、新たに音楽を聴くとき既に聴いたことがあるような曲に対しては、新しさがなくて全く詰まらない、と言ってしまうのです。しかし、文学に関しては新しいものを読んでも仕方がないと言って、積極的に読もうとはしません。古典文学の中に惹かれるものを感じ、現代音楽(まさに現代のことで、例えば「フォークトロニカ」と呼ばれるような最新のカテゴリーに入れられる「音」等)の中に惹かれるものを感じている、という訳です。

一見、正反対のこの自分の態度が私を戸惑わせたのですが、よく考えてみると、全く正反対とは言えないことにも気付きました。
それは、音楽の語法がいつまでもバッハの延長にあって、その枠をどこか壊したいという欲求が強いからであり、現代文学は新しい何か(作品)の中に古典を越えていないことを感じ取ると、読む気が失くなって、それならいっそ古典を読んでいた方がきっと楽しいだろうと思っているから、なのだと思いました。

これらの間には確かに違いがあり、それにプラスして、音楽と文学の歴史や経緯の違い(についての私の認識)を絡めて考えると、必ずしも正反対とは言えなくなります。自分の中の矛盾かもしれないものが少し分かったような気がします。

余り自分の話ばかりでは申し訳ないです。これ以上書くと、自分が嫌になりそうです……。

話を戻しますと、その音楽と対比させて、現代短歌のセンスを重視するかのような姿勢が、実は、音楽でもセンスを重視する姿勢と重なっているところに奇妙な感覚を覚えました。
音楽が、例えば、コンピュータを中心とする機械の恩恵で、素人でも簡単に曲を作れるようになったことを、私は喜んでいます。
しかし、歌が現代国語の教育の恩恵で、簡単に作れるようになったことそのものは喜ばしいのですが、そのどちらもを、意味は違うけれども同じ「センス」という言葉で表すから、妙なことになるのだと思いました。

あくまで日本の場合ですが、音楽が、特に西洋化された音楽が特殊技能の持ち主から解放されたのは、かなり最近のここ何十年、いえ、寧ろここ十年ほどの話です。歌や詩、小説も、言葉を使うという意味では、それを使えない人が決して少なくなかった時代から、言葉を多くの人が使えるようになって、解放されたと言えますが、それも最近になってからだとは思います。しかし、音楽よりはずっと以前……と言ってもこれも数十年の差でしょうが……の話だと思います。

センスが最も大事というような段階は、詩や歌の場合、既に過ぎて次の段階にきていて、それに対して、音楽は今でも、もっともっとセンスを「信じて」それを「歌う」段階なのだと思います。ただ、音楽は、西洋化された音の場合、昔も今もお金がかかるのが残念なところですが……。

ですから、ある短歌からセンスが重要なのだ、という主張を読み取ってしまうような場合、多少なりともうんざりしてしまうのだと思います。語弊を恐れず言えば、実は「簡単な」アナリーゼは、ほぼ誰でもが(私のような者でさえ)行っていることであり、アナリーゼなしに芸術に向き合うことの方が、寧ろ難しいと考えています。
(ここは私の専攻科目を出してしまって恐縮なのですが、哲学の一つの仮説、かなり信頼性の高い理論からほぼ間違いなく言えることと思います。具体的には、理論負荷性の仮説とそれに類する理論です。もし関心をお持ちになられましたら、私の分かる範囲でお話したり、本や論文を紹介することも可能です。。。)

私は、音楽や詩に限らず芸術と呼ばれている活動の「殆ど」は、「引用」から成り立っていると思っています。(だからこそ、引用に問題なく還元され得るような何か「以外」がとても重要になってくると思えるのです。)例えば、寺山修司のような突出したセンスで歌が詠めるのなら、もうそれ以上何も言うことはありません。が、多くの場合、引用の枠を越えて詩や音を歌うことは、才能に加えて相当の努力が必要になるでしょう。しかし、音楽はまだまだ、センスをこそ、もっともっと出してほしい領域なのです。

現代短歌がセンスの主張であるような場合、広告のキャッチコピーとそんなに変わりはないように感じてしまいます。それで問題があるかと言えばないのかもしれませんが、それでは、短歌もコピーも寂しすぎると思うところに、私の現代短歌への疑問が浮上してしまうのだと思います。ラップ音楽と短歌の関係も同様です。

8/24(日)放送「Music Lovers」観覧当選♪……他2008年08月11日

☆タイトルは、
日本テレビの音楽番組「Music Lovers」の「観覧希望」に応募して、
当選したお話です。

「Music Lovers」は、坂本龍一さんが出演で2曲演奏、
坂本さんの他に、コトリンゴさん、□□□(クチロロ)もゲスト?……応援の出演で、
1曲ずつ演奏して下さいました。
更に、ゲストに、橋野えみさん、MEGUMIさん(お名前、合ってるかな??)も
来られていて、とても楽しく、その上、思わず涙が出てしまうような
感動的な演奏でした。。。(T_T)


☆実は、沢山書きたいことがあります……。
 このブログにも、書きかけの記事が5つもあることを発見しました(?)(笑))
 記事を書くときに仮にタイトルもつけるのですが、
 因みに、それらは以下のようなものでした。
 ・寂庵の祈り-瀬戸内寂聴
 ・Martin Luther King, Jr.(これを書きかけたのは、彼の命日の頃ですね……。)
 ・上下左右前後……
 ・心理主義の落とし穴(6/25 の日記の続きとして)
 ・実存主義が(ついでに現象学も)危ない!?


☆8/10(日)は「WORLD HAPPINESS」という野外ライブに行ってきました♪
HASYMO、シーナ&ロケッツ、etc..
その他とてもとても、豪華々々なミュージシャンでした!(^ ^)


☆赤塚不二雄さんが亡くなられました。。。


☆ソルジェニーツィンさんが亡くなられました。。。


☆北京オリンピックで、谷選手が銅メダル獲得!
おめでとうございます!!

残念なのは……、今日も佐藤選手の判定がちょっと変でしたが、
審判の判定ミスが余りにも目立つので、見ていて腹が立ちます。
一度、国際柔道連盟の審判「全員」の免許を失くして(資格剥奪)
厳しい再講習とテストを行う必要があるのではないでしょうか!
ひどすぎますねぇ。。。